動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(4)

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犬と猫との違い(2)その機能の違い

前書き

さて、前回からこの我々の身近にいる「犬」と「猫」との違いを記述してきた訳でありますが今回はより具体的にこの両者の五感の違いを比較して記述してみたいと思います。

しかしその前にこの両者に共通している事柄から記述致します。この両者がともに食肉目に属する動物でありながら全く違う進化の過程を経てきた事は確実ですが、それでもこの両者ともに食肉目の高等肉食獣でありイヌ科の動物も分類学上は「ネコ目イヌ科」であり共通の部分も確実に多い訳です。その共通の部分をざっくりと前書きで記述させていただいて個別の項目でその身体機能の違いを書いていく事でより皆様にこの両者の違いを明確に映し出したいと思います。その為にこの前書きが多少長くなるかと思いますが宜しくお願い致します。

両者共通の部分としてはまずはその皮膚組織です。両者ともその皮膚は他の動物とは比較にならないほど弾力がある柔らかい皮膚で出来ており皮膚のすぐ下には皮下脂肪がありその下に筋肉があります。これは高等肉食獣特有の特徴であり闘って怪我をしてもその傷が致命傷にはなりにくい状態に初めから出来ています。もし相手に嚙みつかれても噛みついている動物の口の大きさが余程巨大で無い限り弾力のある皮膚のおかげで噛んでいるのは皮膚組織だけであり筋肉にダメージを受けにくい様に出来ています。しかもこの両者とも皮膚組織に汗腺は殆どありません。いくら運動しても汗をかかない動物です。これは肉食獣であるこの両者が自分の匂いを獲物になる動物に気付かせない点で非常に役に立ちます。

次にはその骨格です。両者とも非常に丈夫で弾力のある骨格をしており骨格で弱い部分が殆どありません。偶蹄類の殆どの動物が足の骨に弱い部分を持ち、我々人間が二足歩行を始めた為に腰に致命的な弱点を持っているのに対して肉食獣の骨格は非常に丈夫でありその背骨から肋骨まで弾力性に富んでおり極めて骨を痛めにくく、その首の回転度は180度を超えます。自分の頭部さえ入れば殆どの穴には体全体を入れる事が可能なほどその骨格により体は柔軟性があります。

次にはその内臓です。これはイヌ科、ネコ科ともにその内臓の部位の位置は殆ど同じと言っても良く胃は単純で一つしか無く腸の長さをその体長と比べた比率は人間よりも確実に短く出来ています。つまり彼らの胃腸は人間よりも消化能力が無く人間よりも確実に弱いものです。その代りに彼らは嚥下力が発達しており食べたものが異物であると体が反応した場合には簡単に食べたものをすぐに吐き出す事が出来ます。胃腸が弱い分を嚥下能力で十分に賄って生きていく事が出来ます。彼らの胃は一見すると人間と良く似ていますが全く違うのはその伸縮力であり両者とも完全に空腹の状態であれば一度の食事でその体重の5分の1程度の食事を取る事が可能なほどその胃は簡単に伸縮します。簡単に言えば「食い溜め」が可能な胃腸を両者とも持っており何も食事を取らない状況でも2週間程度の絶食には簡単に耐えられる力があります。東日本大震災の直後に牛や豚が空腹によって簡単に多く餓死していったのに対して犬や猫の餓死の状況が伝えられないのはマスコミの偏向報道では無く現実にそんな状況が無いからです。肉食獣はいつも獲物を捕まえられるとは限らず自然の状態では何日も何も食べるものが無い事が日常でありその為に体も進化しており「食い溜め」が出来て「絶食」が出来ます。この点が人間の胃腸と彼らの胃腸との大きな違いです。

最後にこの両者は出産という人間にとってはある意味命がけになる作業が簡単に行われる点で共通しています。犬が安産の守り神とされているのはそこからですが猫も全く同様で両者ともに人間や他の草食獣から比較すれば信じられないほどの安産です。しかも両者とも一度のお産で通常複数の子供を産み、生まれてきた子供の状態は目も見えず歩く事も全く不可能な極めて未熟な状態で生まれてきます。しかし生まれた子供の成長は早く1か月もすれば何とか歩ける状況になり2か月程度で母親の授乳から離れて通常の食事を取り始めます。しかし、だからと言って親離れする時期は決して早くは無く、自然の状態であれば1年以上もの間親とともに暮らします。

他にも細かい部分での共通点はたくさんあるのが現実ですがざっくりと両者の共通点を書けばこういう部分であり、我々人間と彼らとがかなりの部分で進化の過程が違う事は明白です。さて、それでは次に機能別に彼らの違いを記述していく事に致します。

視力

この視力という点では圧倒的に猫の能力が犬を上回ります。この両者ともに人間と同じ様に2つの目で一つのものを見つめる様に出来ていますが見てわかる様に猫の目の位置のほうが犬の目の位置よりも前面に出ており犬よりも猫のほうがより両方の目で一つのものを確認している状態である事は明白です。獲物にする動物と自分との距離感も視力そのものも猫のほうが優れており犬の視力が水平方向に注がれているのに対して猫の視力は水平、垂直両方に働く3次元的なものであり、犬の視力は人間と比べても近眼であり猫の様には発達していません。但し、猫の色彩能力は人間から見ると色盲の状態でモノクロにしか映像は見えずこれは犬も同様で色彩の認知能力はこの両者よりも人間のほうが確実に高いのが現実です。これはもともと猫も犬も夜行性の肉食獣であり色彩感知能力が必要では無かった事が原因です。

しかしこの場合の視力とは我々が視力検査を受ける際の静態視力の数値です。動いているものを見つける動体視力の測定値は猫も犬も人間の30倍以上という極めて優れた優れた視力を持っており、この能力は我々人間が見ているテレビや動画などがコマ送りの映像にしか見えない視力です。もし皆様が可能であるならば録画の再生速度を30分の1にして見て頂ければそれがちょうど彼らの見ている世界である事が解ると思います。肉食獣の動体視力の鋭さはそこまで発達しています。

聴力

聴力を含む耳の機能についても優れているのは確実に猫です。猫の三半規管は犬や人間よりも非常に発達しており逆さまになった状態で落とされた猫が反転して確実に足から音も無く降りられるのはこの為です。猫が車や船に酔う事もまずあり得ない話であり、高度に発達した三半規管によって自分の置かれた状況に即座に体調を整えて見せます。犬は一般的には人間よりもむしろ車酔いなどに弱いのが現実でこれも猫の耳の機能が3次元的に発達しているのに対して犬の耳の機能は二次元的です。ところが犬が優れているのは回数を重ねるとすぐに3次元的に耳の機能を発達させ車酔いもしなくなりむしろドライブを楽しみだす点です。逆さにして犬を落とせば最初は背中からドスンと落ちますが繰り返すと極めて短期間で猫と同じように足から綺麗に着地して見せます。この適合力の高さが犬の特徴で教えれば3次元的な反応を即座に覚えます。

さて肝心の聴力ですがこの能力は犬も猫も人間の15倍から場合によっては20倍以上あります。違うのは何度も述べた様に犬の聴力がほぼ水平方向にしか働かない2次元的なものであるのに対して猫のそれは水平垂直に働く3次元的に発達している点です。さらに人間の聴力が1万5千ヘルツ以上の「超音波」と呼ばれるものを全く聞き取れないのに対して彼らの耳は約4万キロヘルツという考えられない高周波の音波まではっきりと聞き取れます。これはコウモリが出す超音波をはっきりと聞き取れる能力であり、この犬の能力を生かしたものが警察犬や軍用犬に用いられるゴールトンホイッスルという超音波を出す「犬笛」であり、彼らは人間の命令が何であるのかを人間には全く聞こえない高周波の音波を正確に聞いて行動します。聴力においても猫のほうが犬よりも上ですが人間と比べれば犬の聴力も極めて優秀です。

嗅覚

犬が猫よりも身体能力が決して劣っていないのはこの嗅覚の力の差だと思います。

猫の嗅覚が決して鈍い訳ではありません。人間と比較すれば数千倍からものによっては数万倍猫の嗅覚は発達しており、その能力は野生動物全体の中でもかなり鋭いものであるのは確実です。ところがこの「嗅覚」という部門においては犬は殆どの野生動物の力を完全に超越します。犬の嗅覚は人間と比較すれば100万倍から酢酸の分析能力においては人間の1億倍を超えてきます。「犬は鼻でものを考え鼻で行動する」と呼ばれるのはこのずば抜けた嗅覚の力であり、しかも犬のこの能力は年を取って視覚や聴覚が衰えても死ぬまで殆ど衰えません。嗅覚の鈍い人間から見ればこの能力は超能力と言っても過言では無く、散歩に連れ出した犬が匂いを嗅いでいる時に彼らはそこに匂いを残した他の動物の個別の情報である大きさから動物の種類、体調までもすべて匂いだけで簡単に分析します。こんな能力を持っているのはイヌ科の動物以外では一部のイノシシが近い嗅覚を持っているだけであり何と比較してもずば抜けた力です。たくさんの人が降り立つ空港のゲートで特定の人間だけを探し出す麻薬捜査犬や地震で倒壊したがれきの中から人間の匂いだけを特定する救助犬は犬以外の動物では絶対に不可能な離れ業です。

この能力においては犬は猫だけでは無くあらゆる動物を遠く引き離す特殊能力を持っています。

あとがき

「犬」と「猫」との共通の能力、全く違う能力がお解り頂けたでしょうか?

この両者はともに食肉目の肉食獣として進化してきた動物であり似ている部分も多いのが現実ですが全く違った進化の道を歩んで来たことも明白です。だからこそ人間にはこの2種類の友人が必要であったのだと私は考えています。

さて、次回ですがこの両者を一度切り離して「日本の犬」を書いてみたいと思います。その後は「日本の猫」を書く予定ですが何故「犬」のほうを先に書くのかと言えばこの「日本の犬」の歴史が日本人のルーツをかなり的確に証明しているからです。

「その人種がどこからやってきていつ頃からそこに定着したのか?」という謎を解き明かす為には単純に昔の遺骨のDNAを調べれば解ると考えるのは正解とは言えません。調べる遺骨というのはたいていがその地方の有名人物である場合が多く他所から来たからこそ有名になれた可能性も高い訳です。真実を調べたいのであればその民族の主食のDNA(日本人ならコメのDNA)を調べる事やその時代の気象情報を調べて現実的にそこに移動できたのかどうか? まで調べないと解らない訳です。大きな戦争があって前の民族が死滅して新しい人種が後から入ってきて前の文明をそのまま引き継いだなら主食のDNAでも真実は解りません。日本には固有の犬がいくつかおり縄文時代の壁画にも犬と人間が狩猟をしていた絵も残っています。現在いる日本の固有の犬と縄文時代の犬のDNA、その時代の人間のDNA、その時代の気象などすべてを考慮した研究から最近日本人のルーツについて興味深い事実が解ってきました。日本人は朝鮮半島から渡ってきた民族や中国の東北部やモンゴルからの渡来民族では決して無い事が確実に人間とともに移動してきたであろう犬のDNAから解ってきています。このブログはあくまでも「動物ブログ」であり私は「動物」という観点から日本人のルーツを追いかけます。

縄文時代の「狩猟民族」である日本人が犬を使って狩りをしていたという真実は遺跡の発掘からも明らかであり、その犬がどこから来たのか? を調べる事は日本人のルーツとは切り離せない問題であると思っています。

日本人と「犬」、日本人と「猫」との関係も実は世界のどの民族と比べても特殊な関係でありこういう付き合い方をこの2種類の動物と歴史的にしてきた民族を私は他に知りません。「動物と人間との理想的な関係」をグリンピースやシーシェパードが真剣に求めるのであればまずは彼らに「日本人とイヌ」「日本人とネコ」の歴史を学んでほしいくらいです。次回のブログでは比較させてもらう為に「ヨーロッパ」や「東アジア」での彼らと「犬」「猫」の取り扱いも記述させてもらうつもりです。

世界中の動物愛護団体を敵に回しても私は書かせていただきます。真実を書いているのは私であり歴史をゆがめているのは向こうのほうであるという自信が私にはあります。そういう訳で次回は本来の動物ブログから少し外れた「日本の犬」を書かせていただきます。宜しくお願い致します。

動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(3)

犬と猫との違い(1)

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前書き

前回のブログでは「犬」「猫」と人間との関りの歴史を記述してその共通点を書き出してきた訳ですが、今回はこの両者の違いを出来るだけ詳しく述べてみたいと考えています。「犬」と「猫」とはともに食肉目に属する動物でありその体形から歩き方まで実に良く似ていますが「肉食獣の進化の過程」という観点から見ると全く違う動物であり、これほど進化の過程の違う動物も珍しいくらいに違うのが現実です。

「猫」はネコ科として究極まで肉食獣が進化した動物であり「犬」はイヌ科として究極まで進化した動物ですがDNAという遺伝子的な観点からも全く違います。両者の体形が良く似ているのは結果として最適な肉食獣として進化した両者が肉食獣の理想の形として良く似たものになってしまっただけであり、似ているのは体形だけでその他はすべて違うと言っても過言では無いくらいに違います。純粋に肉食獣として進化の過程を上り詰めてきたのは間違いなくネコ科でありあくまでも独自で特殊な進化をしてきたのはイヌ科のほうです。両者の知能の比較が困難なのはそこであり人間が良く用いる知能指数(IQ)という知能の測り方であれば優れているのは確実にイヌ科の動物のほうです。しかしこの「IQで比べる」というのは人間が考えた方法であり人間に近い知能を持つ動物ほどIQは高くなります。つまり人間から離れて進化した動物ほどいくら知能が発達していてもIQは低くなってしまう訳でありこれは「犬」と「猫」という人間以外の動物同士を比較する上では不適格な訳です。ネコ科の動物は単独で獲物を取る肉食獣でありイヌ科の動物は集団で獲物を取る傾向が強いですがイヌ科の動物でも単独で獲物を取る動物もおります。代表的なのはキツネやコヨーテがそうですが彼らの知能は極めて高くしかも集団で獲物を取る他のイヌ科の動物よりもネコ科の動物よりに知能が発達している点が単に「IQで知能を測る」事が間違いである事を証明しています。

とはいえ動物の知能や身体能力を主っているのは間違いなくその動物の「脳」であり「脳の機能」がその動物の能力を決めている事は確実です。そこで今回はまず「脳」の機能について出来るだけ詳しく述べてみたいと思います。宜しくお願い致します。

動物の脳の機能

良く誤解されているのが「脳の重さが重いほど知能が高い」という言葉や「大脳のシワが多いほど知能が高い」と思われている点です。現実には脳の重さもシワの多さも直接その動物の知能とはあまり関係がありません。

例えばゾウの脳の重さは人間よりも重く人間よりも大きいですし、イルカやクジラの脳ははるかに人間よりも複雑でシワも多いのが現実です。それでは彼らは人間よりも頭が良いのでしょうか?  まずは脳の重さの謎から考えてみます。

これは決して一概には言えませんが平均して脳の重さとその動物の知能とはその動物の平均の体重の重さと脳の重さの比率で決まります。体重が軽ければ脳の重さが軽くても知能は高いと考えられており現実にこの比率が一番高い動物は確実に人間です。では2番目なのはどの動物だと皆様はお考えでしょうか?  意外なことにその動物とはチンパンジーでもイルカでも無くもっと皆様の近くにいる動物です。その動物とはカラスでありカラスの体重に対しての脳の比率は人間に次ぎます。私が最初に「一概には言えない」と書いたのはそこでありこれも一概には比較できないものです。しかし現実にはカラスがたいへん賢い鳥である事は確実です。決してこの方式での知能の測り方は間違いとは言えないと思います。

次に脳のシワについてですがこれも直接は知能とはあまり関係がありません。しかし間接的には大きく関係してきます。

動物の脳はその中心部から徐々に周辺部へと発達してきました。つまり脳の機能は中心部にいくほどその生命を生かす為の原始的な役割になります。周辺部である大脳皮質の面積が多いほど知能が発達している事になりシワは全く関係がありません。どんどん周辺部を大きくしていけばより知能が発達する訳です。ところがすべての動物はこの「周辺部である大脳皮質の面積を拡大していく」進化の時点で大きな障害にぶつかります。脳は動物の機能を保つ上で大変重要な要素を持っている為に簡単に外部から衝撃を受けにくい様に例外なく頭蓋骨という固い容器に覆われています。頭蓋骨の面積以上には決して脳は大きくなれないのが現実です。その障害を克服する為に高等動物の脳は頭蓋骨に達する前にシワを作ってそのシワによって頭蓋骨の中でも表面積を増やしていきます。シワが多いほどその動物の表面積にあたる大脳皮質の割合は大きくなる訳であり人間の脳があんな複雑な構造をしているのは決められた「頭蓋骨の中」という空間の中で出来るだけ大脳皮質を拡大しようとして進化した結果です。ですから「脳のシワ」は結果として大脳皮質の面積と間接的に大きくかかわってきます。頭蓋骨の大きさが一定である以上シワを増やして表面積を増やすしか方法は無くだからこそ頭脳の発達した動物ほど脳の構造は複雑化している訳です。

次に「大脳」と「小脳」の関係ですが思考能力を主る「大脳」に対して運動機能を決定する「小脳」という関係はありますがこれも一概には言えないのが現状で「大脳」にも運動能力を決定する部分も多々あり「小脳」にも思考能力を考える部分も勿論あります。これはもともとの原始的な動物の脳が一つしか無かったものが進化の過程でその役割ごとに分化したものであり両方の脳にも原始的な動物であった頃の機能が残っているのが当然であり、他の臓器である「心臓」と「肝臓」との違いの様にはっきりとその役割を決めている臓器とは根本的に違います。その動物の「脳」とは「大脳」「小脳」から「延髄」までも含めて「脳」でありその動物の知能はすべてを合わせた脳の力になります。

「右脳」と「左脳」の能力の違いについてはもっとおおざっぱであり直感力、音楽力、図形力、全体を見渡す力、空間認知力を決定する右脳、言語力、論理的に考える力、計算力、物事の分析力を決定する左脳というのはどちらかと言えばそうだという事に過ぎず右利きの人と左利きの人とではこの機能が全く逆になっている場合も多々あります。「脳」に関する科学とはまだ良く解っていない部分のほうがはるかに多く、人間が眠りにつくシステムやその理由、夢を見る理由についても現在では全く未開拓な分野です。人間自身が自分たちのシステムすら解らない状態で人間以外の、それも人間とは全く違う進化の過程を経た動物同士の知能の比較は非常に困難です。これが犬と猫との知能の比較が出来ない最大の理由です。

「犬」と「猫」との脳の機能の違い

とはいえ「何も解らない」で終わるのでは意味がありません。今回のブログの最後にはこの両者の脳の役割の決定的な違いを記述してみたいと思います。

猫が犬より優れている点は間違いなく直観力であり、それを主る運動機能の高さです。この能力においてはネコ科の動物はすべての肉食獣をはるかに上回ります。出し入れの自由な鞘の付いた爪はネコ科だけに与えられた特殊能力であり敏捷な体がそうした機能を最大限に生かします。「直観的に鋭く働く能力」、この力を最大限に活かせるためにネコ科の動物は究極に進化した肉食獣であると言えると思います。

これに対してイヌ科の動物が優れている部分は物事を瞬時に間接的に考えられる能力です。「犬は賢い」と人に言われるのはそこであり猫とは全く逆方向に進化しています。

少し怖い話になりますが皆様がトラやライオンを鎖でつないで歩いている状態を想像してみてください。その状態でつながれているトラやライオンが鎖でつながれている状態からの自由を求めた場合に彼らは例外なく自分がつながれている鎖を攻撃します。ところがこれがイヌ科の動物であれば最初に攻撃するのは鎖を持っている人間です。瞬時に間接的に自分が自由になる為には何が最適なのか判断して鎖を持っている人間を攻撃する訳です。この犬の間接的に考えられる力をうまく利用したものが警察犬であったり盲導犬であったり救助犬であったりする訳です。彼らはいつも背後にいる人間の状態を間接的に考えて行動するから役に立つ訳であり自分が間接的に人間を助ける役目である事を最初から理解しているので使用する人間と使用される犬との利害関係が完全に一致する訳です。

直観力と身体能力に優れその為に進化した猫、間接的に自分の置かれた状況を判断しその能力を最大限に活かす為に進化した犬、「犬」と「猫」との決定的な違いはそこにありどちらかがどちらかの進化の過程を後追いしたものでは無く完全に別の進化の過程を歩んできて今日の姿があります。一見すると似ているこの両者は実は全く違う動物である事は間違いの無い真実です。

あとがき

もしこの両者が少しでも同じ進化の道を歩んできた歴史があるのなら人間は1つの動物だけと付き合ってきたと思います。全く違うからこそ両者が必要な訳です。

ところが面白いのはこの両者を一緒に飼うと犬が猫化するか猫が犬化する点です。どういう要因でそうなるのかは不明ですが私は両方経験しています。最初は犬が猫の様になりました。木登りを覚え屋根の上で昼寝し完全に猫と同化してしまいました。その次には猫が犬の様にになってしまい犬小屋で犬と一緒に昼寝し、犬の散歩の時にもいつも付いてきたのを覚えています。公園でも他の犬と一緒に遊び犬と同じ食事を最後までしていました。別々に飼っていると仲の悪い両者ですが一緒に飼うと仲良く暮らします。決して同時に飼った訳ではありませんがそれでも問題なく仲良くなります。この現象は現在でも不思議でありその理由は全く解りません。

さて次回のブログですが今回の続きになります。犬と猫との違いをその身体能力の違いから具体的に記述していくつもりです。今回はおおざっぱに身体能力の優れる猫と間接的な思考力に優れる犬と記述しましたが猫のすべての身体能力が犬を上回る訳でも無く犬の間接的な思考能力のすべてが猫を上回る訳でも決してありません。おおざっぱに見ればそうであるという事であり次回はこの両者の能力を出来るだけ細かく一つ一つ見ていきたいと思います。宜しくお願い致します。

 

超常現象を考える

大槻義彦教授に異議あり(後編)

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前書き

さて、皆様とのお約束通りこの(後編)では大槻教授の「物理学による心霊現象や死後の世界の否定」を大槻教授がご専門の物理学で批判していくつもりですが、その前に前回の(前編)を書いた後に「物理学は苦手だ」とのコメントをいくつかいただきました。

それは正常な人間である事の証明です。「物理が得意だ」という人間のほうが確実におかしな人間であって私自身も物理学など苦手で大嫌いです。皆様の学生時代に「物理が得意だ」と周りに言っていた人がいるのならその人の事を思い出していただきたいです。そういう人は確実に変わり者であった筈です。前編でも触れましたがそもそも物理学は定義があいまいで「科学」と呼ばれる項目の中ではまだまだ発展途上の未開発な分野です。ですから普通の人は物理学が苦手で当たり前であり、その事は大槻教授ご自身も勿論ご存知の筈です。ご存知でありながらテレビ番組や著書では物理学で超常現象を否定しておられる、この事実が私が大槻教授が確信犯であり一般庶民を馬鹿にしていると考えている根拠です。

この私の根拠に対して大槻教授が「そんな事は無い」とおっしゃるのであればテレビや一般の著書を書いているよりも物理学会に「物理学による霊の否定」の論文を提出し、学会で発表してください。お立場上そんな事は簡単に出来る筈です。その論文が世界の科学者に認められればノーベル物理学賞は確実に取れます。

かつて相対性理論を発表し速度の変化によって時間も変化する事やこの空間が重力の影響を受けてひずみが生じる事を公表したアルベルト アインシュタインですら彼の遺言は「次に生まれ変わったら配管工になって平凡な人生を過ごしたい」であり、ノーベル物理学賞を受賞したアインシュタインは死後の世界や人間の転生については認めていました。その偉大な功績を塗り替えられるものが発表されれば確実にノーベル賞を取れご自身がおっしゃっている様に今後のオカルト番組や霊能力者の登場を確実に防ぐ事にもなり科学の進歩も阻害されない時代を築く事が出来る筈です。

何故そういう作業に全く手を付けずに素人相手にだけに物理学で超常現象の否定をされているのでしょうか? 答えは大槻教授の考える物理学が他の著名な物理学者から見て通用しないものでありだからこそ大槻教授は殆ど物理学を知らない素人の前だけでご自身の考えを述べられているとしか考えられません。

この(後編)ではそうした大槻教授の述べられている物理学の盲点を暴いていきます。一般の皆様に解りにくい物理用語も書きますので少々退屈に感じられるかもしれませんが何卒最後までお読みください。物理の法則など自然界にある事を論理的に書いたものにしか過ぎず最後までお読みいただければ必ずご理解いただけると私は信じています。それでも解らなければ個別に質問していただければ回答させていただきます。宜しくお願い致します。

エントロピー増大の法則は霊の存在を否定できるのか?

大槻教授は著書の中で「物理、化学の公式は歴史が変わっても絶対に変わらない不変の法則だ」と述べておられます。私も全く同意見で発見された理数系の法則は歴史が流れても絶対に変わらないと考えています。1+1=2であるのは1万年前でも10万年後でも変わらない事実でありこの回答が3になったり1になったりする事はあり得ません。

大槻教授が「霊は物理的には絶対に存在しない」とおっしゃっているのは熱力学の第二法則、一般的に「エントロピーの法則」呼ばれるものと霊の存在が矛盾するからという一点です。では本当に矛盾するのでしょうか?  エントロピーの法則とは正しく書けば

孤立系におけるエントロピー平均すると増大の方向に向かう

というものであり一般の皆様には何の事だか良く解らないと思います。この法則を私が赤字と青字で色を変えたのには意味があるのですがその訳は後で述べるとしてまずはこの法則の説明をしたいと思います。

大槻教授はその著書「冝保愛子の謎」の116ページで「おならをした空気は徐々に部屋中に広がっていくが一旦広がったおならがお尻の穴に集まって来ることは絶対に無い、これがエントロピーの法則だ」と述べられています。確かにこれもエントロピーの法則ですがこの例えは極めて下品であり解りにくいものです。一般的にエントロピーの法則は以下のように説明します。

例えば箱の中にサイコロを10個入れてすべてのサイコロの目を1にします。そしてサイコロの入った箱に蓋をしてその箱をふればふる度にサイコロの目は元のすべて1であった状態からバラバラになっていきます。これを物理学では「エントロピーが増大した」と呼びます。

もう一つの例として試験管に冷水を半分入れてその上に熱湯を入れると最初は熱湯と冷水に分かれていたものが時間の経過とともに同じ温度のぬるま湯になっていきます。これもエントロピーが増大した訳です。

私が最初にこの法則を赤字で書いたのはこの赤字の部分を大槻教授が一切説明していないからで私が説明させていただきます。まず外から絶対にエネルギーが加わらない「孤立系」でなければエントロピーの法則は成り立ちません。水を入れた試験管の例でいえば片方をガスバーナーで熱してもう片方を氷を使って冷やせばどうなるでしょうか? 確実にエントロピーは減少の方向に進みます。

もう一つ、「平均すると」エントロピーは増大するという事です。自然にでもエントロピーは減少する可能性もあります。箱に入れたサイコロの目の例を思い出してください。ゆすった箱の中のサイコロの目がすべて1になる可能性がある事が解ると思います。但しその確率は小学校に入学した子供が1日に百回その箱を90歳までふり続けても出来ない可能性のほうが高い訳です。サイコロの1の目が出る確率は6分の1であり10個のサイコロの目がすべて1になる確率は6の10乗分の1で60466176分の1という恐ろしく低い確率になり、まず確認する事は不可能です。大槻教授のおっしゃられた「おなら」の例でもにおいの分子同士が再び集まってお尻の穴の周辺に戻ってくる可能性もゼロではありません。そんな事は100万年に1度も起こらないほど確率が低いだけです。

大槻教授のおっしゃるように物理学の法則は絶対で不変のものですが正しく教えないと法則自体がおかしいものになってしまいます。大槻教授がおっしゃっているのは青字の部分だけで

エントロピーは増大の方向に向かう」

という事だけでありそんな法則自体が物理学上あり得ません。エントロピーの法則とは「確率の低い事は起きにくい」という当たり前の事を法則として定義しているだけのものでありこんな法則だけで心霊現象を否定できるものでは決して無い訳です。幽霊を見たり超常現象を経験している人の多くは霊や神や仏を信じています。そういう人にとってはこの世の出来事は決して「孤立系」ではない訳でこの法則自体が適応出来ません。大槻教授は物理学者であり確実に私よりも物理の知識をお持ちでありエントロピーの法則についても真実は解っていらっしゃる筈です。そういう人がわざわざ物理の法則をしっかりと伝えずに持論を主張する事は大きく日本の物理学の進歩の阻害なる確信犯の犯行です。絶対にやめて頂きたい。

物理学の法則は絶対で不変であり「エントロピーの法則」も確かにあります。しかし「エントロピーの法則」では決して霊の否定も生まれ変わりの否定も説明できません、これが物理学の真実です。

あとがき

大槻教授は確かに日本の物理学の権威の一人ですが日本だけに限っても物理学の一流の学者は何人もいらっしゃいます。まして世界中を見れば物理学者で大槻教授レベルの人はたくさんいらっしゃる訳です。ところが少なくとも私は「物理学で心霊現象を否定できる」と公言しておられる人を大槻教授以外には知りません。これはおかしな話であり、本当にそんな事が出来るのであれば大槻教授以外にも必ずたくさんの学者が出てくるはずだと考えるのは当然です。

とはいえ私は大槻教授が好きであり大変尊敬しています。大槻教授が霊の存在を否定する事も自由です。しかし科学の真実を曲げてまで持論の正当性を証明しようとする事はオカルトブームなどよりはるかに悪質であり物理学の知識の乏しい一般庶民に間違いだらけの物理法則を教えて霊の存在を否定する事はこの世のあらゆる科学の進歩に害しか与えない間違いだと私は思っています。したがって今後もそういう事が行われるのであれば私はいつでも非難させていただきますし、私の書いている事が真実でないと思われるのであればいつでも議論には応じますので宜しくお願い致します。

 

超常現象を考える

大槻義彦教授に異議あり(前編)

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前書き

大槻義彦氏は早稲田大学理工学部教授、理学博士であり、テレビ番組でもよく超能力や超常現象の否定派として登場しているのでご存知の皆様も多いと思います。「火の玉現象」をプラズマが引き起こす現象であると科学的に証明された事でこの人の名前は一躍有名になりました。

実は私自身この教授を大変尊敬しています。小学生の頃、夏の夕方の夕立が上がった後の公園に犬の散歩に出かけていた私は目の前に光り輝く火の玉が通り過ぎるのを目撃しました。「火の玉」というよりも「光の玉」でありあれはいったい何であったのか不思議な思いでしたが、その後しばらくしてこの大槻教授の「火の玉研究」の発表がされて自分の見た超常現象のすべての謎が完全に解消されました。本当に感謝しています。

しかしこの人の超能力や霊に対する批判は「やりすぎ」としか思えない、中途半端に物理学を引き合いに出してすべて批判してしまう、これは無茶だと私は思います。プラズマ研究の第一人者である大槻教授が私よりも物理学の知識が無い事など絶対にあり得ない話であり、この人が物理学で超常現象を否定しているのは完全な確信犯だと思います。私も今後カルト集団やオカルト現象を否定していくブログを書いてくつもりですが最初に私のスタンスと大槻教授の姿勢は全く違うものである事を書いておかないと、おかしな誤解を生みかねない、ですから私が超常現象や世界の不思議な出来事を私なりの考えでブログに書く前にまずは(前編)(後編)に分けて大槻教授を徹底的に批判させていただきます。テレビで述べておられる事もおかしな理屈が多いのですが皆様にその根拠を探していただくのも困難になるので大槻教授の著書から批判させていただきます。

資料は悠飛社から出版された「冝保愛子の謎」と鉄人社から出版された「江原スピリチュアルの大嘘を暴く」の2冊です。ご興味のあるかたは是非取り寄せて読んでいただきたいです。この本は実によく出来ており私も書いてある事の8割以上は賛成出来るものでありなんの意義もありません。ところが残りの2割ほどとこの本を書いた大槻教授の意図、超常現象や霊を否定する考え方の根本が大槻教授のご専門である物理学から見ても明らかにおかしい。私自身も冝保愛子や江原啓之など全く信じていませんが、彼らを批判する大槻教授の根本概念が間違っているのであればまずはそちらのほうから批判しなければならないと考えています。資料がたった2冊であるのは少なすぎる観がありますがこの人が書いている著書の概念はどれも同じであり充分に2冊で足りると私は判断しました。今回の(前編)では超能力や霊に対しての大槻教授の根本的な間違いと「物理学」という学問のあり方を批判し、(後編)では大槻教授が超常現象否定に出してきた物理の法則とその論調の間違いを具体的に述べ、著書の中のどの部分がどう間違っているのかを細かく見ていきたいと思います。宜しくお願い致します。

オカルトブームは人類の科学の進歩を後退させるのか?

この2冊の著書に共通しているのは大槻教授がこれらの本を書いた動機です。最近のオカルトブームは青少年の学校で学んだ科学知識を後退させ科学の進歩を阻害し世の中に悪影響しか与えないので私はこの本を書いたとはっきりとおっしゃっています。

超能力や心霊現象は未科学では無く非科学であり絶対にこれを認める事が出来ないともはっきりと記述しておられます。一見ごもっともなご意見ですがはたしてそうでしょうか?

大槻教授が冝保愛子や江原啓之の個別の事項を持ち出してそれを科学的に批判していく事は有意義な事である(それでもおかしい部分は多々ありますがそれは(後編)で書きます)が実は科学の進歩を一番阻害するのがこうした一流の科学者たちの一方的な思い込みです。

具体的な例を申し上げましょう。皆様は風邪をひかれた時にビタミンCを取りなさいという言葉を聞いた事があると思います。ところが薬局で「ビタミンCは風邪に効く」との張り紙を見た事は少ないと思います。もし薬局にそうした張り紙があったとしても厚労省がその薬局の視察に行く時にはすべてその張り紙は外されます。現実にはビタミンCは確かに風邪に効きます。しかし現在の医学でそれを臨床的に証明し、何故風邪に効くのかを科学的に証明するまでは「ビタミンCが風邪に効く」というのは都市伝説でありなんの科学的な根拠もありません。

こうした「都市伝説」を科学的に証明した事例もあります。「秋田美人は肌が綺麗だ」という言葉は完全な都市伝説でした。ところがこの都市伝説を科学で証明した企業があります。化粧品のシェアの国内第一位に位置する資生堂です。資生堂は長い歳月と莫大な研究開発費をかけて何故秋田県の人間の肌が綺麗なのかを解明し、少し前までの秋田県の女性がコメの研ぎ水で顔を洗っていた事実に注目し、コメの研ぎ水から美白成分を検出して「ホワイテス」という美白剤を販売しました。この話は私が直接資生堂の研究員から聞いた話であり間違いはありません。資生堂の美白剤「ホワイテス」が高価なのは開発するまでに莫大な研究費がかかっているからです。この「ビタミンCは風邪に効く」「秋田美人は肌が綺麗だ」というのを大槻教授の様に「なんの根拠も無い都市伝説で非科学だ」と断定してしまったら科学の進歩はそこで止まってしまいます。

超常現象についてもこれは全く同じです。かつて大槻教授自身が「火の玉」を見た事から彼は「火の玉研究」を始めました。同じ様に現在解明されていない超常現象を経験している人はたくさんいます。その現象を一つ一つアカデミックに研究する事は大きな科学の発展に役立ちます。絶対にやっては駄目なのは「超常現象はすべて霊の仕業だ」とか逆に大槻教授の様に「そんなものは物理的に存在しない」と決めつける事であり、この事こそが人間の科学の進歩に深刻なダメージを与えてしまう事になります。人間の脳はテレビから入ってきた情報をそのまま受け入れるのでは無く、その真偽を判断して自分の考えにします。オカルト番組の放映は全く科学の進歩の阻害にはならないものであると私は考えています。

物理学という学問

大槻教授はこの2冊の本の中で冝保愛子や江原啓之の番組の最後に「この番組はフィクションです」とか「これは単なるショーなので、皆さんは、そのように考えて本気にしないように」というタイトルを入れる事を提案しています。

皆様はそんなタイトルが入ったオカルト番組を真剣に見ようとするでしょうか?

あり得ない話で絶対に無理な注文です。その代りテレビ局は「この番組で放送した内容はまだ科学的に発見されていない真実です」というタイトルも一切付けていません。つまり「番組の真偽は視聴者の皆様で考えてください」という事であり私はそれでなんの問題も無いと思っています。大槻教授は我々一般庶民の事を馬鹿にし過ぎています。我々は自分自身で考えて答えを出す程度の知能は持っています。

そもそも科学、その中でも物理学というのは定義があいまいな学問です。ニュートンが発見した力学はこの世界に実在するあらゆる事象を数字で説明していく科学です。摩擦係数や重力計算、物質の原子構造による重さの違いなどすべて自然現象を数学的に証明したものでした。ところが20世紀に入ってからの物理学は一人の学者によって革命的な変革を遂げます。アルベルト アインシュタインによる相対性理論の発表です。

現在の宇宙科学でも地球以外の星の大きさや重力、その星までの距離を測る作業にはすべてニュートンの発見した力学の応用で成り立っています。しかしニュートンの力学をいくら応用しても全く解らない事象が数多く出てきています。宇宙に開いた巨大な穴であるブラックホール皆既日食時に見られる太陽の空間のひずみ等は力学では絶対に証明出来ません。ニュートンの力学に対してアインシュタイン相対性理論が理論であり相対性力学に変わらないのは現在の物理学では相対性理論をすべて説明できないからです。しかしアルベルト アインシュタインの没後にも相対性理論に対する実証実験は何度も行われており、現在まで相対性理論と矛盾する結果が出てきた事は全くありません。光のスピードがどんな条件であっても絶対に変わらない事は車に付けているカーナビやスマホの地図検索で容易に証明出来ています。光速近くまで加速された粒子の寿命が延びる事も数年前に発表されました。相対性理論の証明は確実に近づいています。

この理論によると我々がこれまで学んできた相対速度の計算も間違いになってしまいます。50キロで走る車と60キロで走る車が水平にすれ違う速度は厳密には110キロでは無く109.999999999・・・となってしまいます。ではその公式である

T=√1-Ⅽ2/U2/T₀

というものを小学生から教えないと大槻教授の理論では嘘を子供に教えている事になってしまいます。

冗談ではありません。大学の数学科の学生がやっと理解出来るレベルの一般相対性理論の速度公式をどうやってはるかに小さな小学生が理解できるのですか、大槻教授

あいまいでいいんです。特に物理学はあいまいに覚えるところからスタートするものだと私は思います。円周率であるπの値は小学生では3、中学生になれば3.14、高校生になってからやっとπが無理数である事を教える現在の教育に何の問題があるのでしょうか。それとも大槻教授は小学生の理科の授業で先生が「これから私が教える事は真実ではありません」と子供に言わなければ日本の科学の発展が阻害されるとお考えなのでしょうか?

オカルト番組大いに結構、オカルトブームも偽超能力者も大歓迎、こうした世の中の様々な情報の中から人間は疑問を感じ、それによって科学も文化も進化していくという私の理論がおかしいというのなら大槻教授でも大槻教授の支持者でも私はいつでも議論に応じるつもりです。

あとがき

大槻教授はその著書の中でもテレビの討論番組でも「超能力や霊の存在が認められたら私はその時点で大学教授を辞める」と公然と言い「その為に辞表をいつも持ち歩いている」とも述べています。辞表や退職届を出した人はご存じでしょうが辞表も退職届にも絶対に必要なのは日付であり日付の無い辞表など辞表とは呼びません。

それでも「違う」と大槻教授がおっしゃるのであれば是非その辞表を大学に提出して大学をお辞めになってください。そうでなければ辞表をいつでも持ち歩いている事は自分の宣伝でしかありません。

通常の人間が大槻教授と同じ事を言っても私はここまで非難も中傷も絶対にやりません。東大卒の早稲田大学の物理学の教授が言っているから非難しているだけです。何も解らない一般庶民と違って大学教授の発言は世の中を動かし、人間の思考に影響を与えその後のその人の人生にすら関係してくるほど重い発言です。ですからそういう立場の他の人は自分の発言力の大きさを考えておかしな事は絶対に言わないように日常を過ごしている訳です。端的に言えば大槻教授の発言は冝保愛子や江原啓之よりもはるかに重い言葉です。だから私は黙って見過ごせないだけです。

それでは皆様、次回はこの大槻教授の言う物理法則の間違いと冝保愛子や江原啓之に対する個別の事柄についての間違いを出来るだけ解りやすく記述していく(後編)を書きたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

 

 

 

動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(2)

人間との関り

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前書き

前回のブログでは犬、猫がどういう動物であるのかを書きましたが今回は彼らがどう人間と関わって人間の家畜やペットになったのかを私の推測も交えて記述したいと思います。この事は推論を入れないと書けません。牛や豚や馬とは全く違う犬の家畜性、ウサギや鳥などの小動物とは全く違う猫の愛玩動物としての歴史を彼らは持っている訳で動物学者の中でも彼らと人間との関わりの歴史の始まりについては全く解っていません。家イヌや家ネコが野生にいるはずも無くどこかの時点で彼らは人間と接触を持ち改良され現在の姿がある訳ですがその歴史は他の動物に比べて恐ろしく古くはっきりした事は解らないのが現実です。

それでは彼らが人間といつ関りを持ったのかをあいまいながらもどうして特定出来るかと言えば遺跡からです。人間は旧石器時代から狩猟によって生計を経てていました。狩猟は勿論他の動物を捕まえて食べる為であり当然骨などの食べられない部分もごみとして出てくる訳です。古代の人間はそうしたごみを決まった場所に捨ててきた訳ですが、ある時期から犬の骨、猫の骨はそういうゴミ捨て場から殆ど出てこなくなり人間の墓に近いところから出てくるようになります。これは人間が犬や猫を特別な動物とみなしていた証拠であり彼らと人間が共存してきた事を意味します。犬はいつから犬になり猫はいつから猫になったのかを調べる為には遺跡を調べるしか方法はありません。ですから今回は私の推測も交えて「犬」、「猫」を個別に見て人間との関りを記述してみたいと思います。宜しくお願い致します。

イヌと人との関わりの歴史

犬が家畜化された歴史は他のどの動物よりも格段に古く現在から1万5千年前から2万年前という旧石器時代まで遡ります。人間にとって最初の人間以外の動物との関りが犬であった事は間違いが無く、それゆえに犬の原種が何であったのかは現在でもはっきり解っていません。家ネコの原種がリビアヤマネコである事は確実ですが家イヌの原種は「インドオオカミから改良されたもの」「イヌという個別の動物がいたというもの」「イヌ科の様々な動物が交じり合って出来た動物であるもの」という多元説が取られており真実は誰にも解りません。「インドオオカミ説」が現在最も有力ですが家イヌにはオオカミには全く無い特徴がいくつもあって決定的な起源説にはなっていません。

一見「DNA鑑定」で簡単に解りそうにも思うのですが犬とコヨーテ、犬とジャッカル、犬とオオカミのDNAは殆ど同じでこの3種の動物と家イヌには生物的に混合品種が簡単にできます。この混合品種というのは馬とラバを掛け合わせて出来たロバ、ライオンとトラやヒョウとを人工的に掛け合わせた品種とは全く違います。品種の近い動物を人工的に交配させて新しい動物を作り上げてもその新しい品種には生殖能力がありません。馬の親子は当たり前に存在するのにロバの親子というのは絶対に出来ません。ロバは人工的に作った品種なので生殖能力が無く親にはなれない動物です。

ところが先ほど上げた「コヨーテ」「ジャッカル」「オオカミ」と犬の混合種にはきちんと生殖能力がありいくらでも交雑が可能です。これが家イヌの原種を特定出来ない最大の理由です。現実にアメリカのネイティブインディアンが飼っている犬とコヨーテ、アラスカのエスキモーが飼っている犬とオオカミ、アフリカや東南アジアの原住民が飼ってる犬とジャッカルはその姿が酷似しています。インドオオカミが犬の原種であるとの説ではこの事実は全く証明できません。

さて、ここまでは生物学的な事実ですがこれから述べる人と犬との最初の関りについては私の推論も交えて記述させていただきます。

旧石器時代の人間はまだ農業というものを知りません。狩猟によって得た獲物を食べ、洞穴を掘って暮らしていました。当然に食べ残しが出てそれをゴミ捨て場に捨てていたわけです。まだ家畜化されていない野生のイヌがその人間のゴミ捨て場から自分たちの餌となるものを食べていたとしても不思議ではありません。人間の顎では当然かみ砕く事の出来ない野生動物の骨も骨にこびりついた肉も肉食獣であるイヌの歯と顎の力では通常の食事になります。最初は人間にゴミ捨て場にいるところを見つけられたら殺されるか追い払われたかもしれませんが野生種のイヌが人間の捨てたごみを片付けてくれている事が解ると人間も彼らを放置したと思います。これが私の考える人と犬とのつながりの第一歩です。

人間から追い払われなくなった野生のイヌは徐々に人間の住居に近づいて生活するようになった筈です。人間のほうもわざわざ残り物をゴミ捨て場まで捨てに行くよりも近くにいるイヌに与えてしまえば良い便利な存在になり徐々に人間とイヌとの距離は近づいて行ったはずです。この時代は旧石器時代であり人間は基本的に洞穴などに入って眠っていました。そういう時代の人間にとって一番恐れる事は夜行性の大型肉食獣であるトラやクマなどに寝ている間に襲われる危険性です。ところがイヌも夜行性の肉食獣であり、こうした大型の肉食獣が人間の住居に近づいた時には鳴き声を出して人間を起こし危機を知らせた可能性が高いです。イヌの鳴き声に気づいて猛獣の襲撃から助かった人間はよりイヌを住居に近づけたでしょう。ご褒美に餌をもらった可能性も高くなります。私は最初の人間とイヌとの交流はこうした番犬的な役割から始まった可能性が高いと思っています。

そうしているうちに人間とイヌとは行動を共にする事になります。前にも述べた様にこの時代は旧石器時代であり人間の仕事は狩猟です。人間と行動を共にした犬は人間よりもはるかに優れた感覚と高い運動能力を持っています。獲物を見つける事も逃げていく獲物を追いかける能力も人間よりもはるかに勝っています。犬が獲物を見つけ獲物に追いつき獲物を足止めしている間に人間が獲物に追いつき獲物を仕留める。狩猟犬の誕生です。こうして長い期間を経て野生のイヌは家イヌとなり人間との関係を深めていったのでは無いかと私は考えています。

ネコと人との関わりの歴史

現在の家ネコの祖先はDNA鑑定からも中東の砂漠地帯に生息していたリビアヤマネコである事がはっきりしています。つい最近までネコと人間とが共同生活を始めたのは約5000年前の古代エジプトの時代と考えられてきました。ところが今世紀に入ってから地中海のキプロス島のシロウロカンボス遺跡で、約9,500年前の墓から猫の骨が発掘されました。この骨をDNA鑑定した結果間違いなくリビアヤマネコである事が解りました。つまり約1万年前から人間とネコは生活を共にしてきた訳です。犬と比べれば歴史は浅いですが猫もかなり古い時代から人間との付き合いがあった事は間違いの無い事実です。

さて、ここまでは学術的に証明された真実ですがここからは私の推論もかなり入ってきます。何故ネコと人間は共同生活を始めたのでしょう。

まずこの1万年前という時代は人間の生活様式が変わり始めた時代です。それまでの狩猟に頼る生活から人間は粗末ながらも住む家を立て始め倉庫に穀物などの食料を保存して定住生活を始めました。動物の狩猟が出来ない時期には穀物や果実を食べて暮らし始めた訳です。そうなると一番厄介になるのが人間の住居に住み着き倉庫の穀物を食べてしまうネズミや床下に住み着いて人間を襲う毒蛇になってきます。

一方でその当時の野生のリビアヤマネコからすれば獲物であるネズミや蛇などが大量に住んでいる箇所が人間の住居と倉庫になる訳で肉食獣であるネコが決して人間の食料である穀類を食い荒らす心配もありません。当時の人間は積極的に野生のネコを自宅に迎えたでしょうしネコの存在は大きく人間生活に貢献した訳です。完全に利害が一致した人間とネコは共同生活を始めてやがて長い時間をかけて改良されてリビアヤマネコは家ネコへと変わっていった訳です。これが私の考える人と猫との付き合いの歴史です。

他のどの家畜とも全く違う犬、猫の存在

ここで皆様に考えて頂きたいのはこの「犬」「猫」という動物が人間と付き合い始めた歴史は他のどんな動物とも完全に違う事です。

野生の馬がわざわざ人間を乗せて走る為に人間に近づいたはずも無く、豚や牛が自分の肉を食べて欲しいと思って人間に近づく筈もありません。鶏が人間に卵や自分の肉を食べて欲しいと考える事もあり得ない話で他の現在ペットになっている小動物も決して自分たちから人間に近づいた訳では無いという事です。人間はその文明の進歩とともに便利さを考えて、野生の馬を捕まえてきて飼いならして背中に乗れるようにしただけであり、狩猟するよりも便利だからという事で牛や豚や鶏を家畜化して飼うようになっただけであり、これらの家畜はすべて人間の一方的な事情によって人間に飼われるようになっただけです。

ところが何をどう考えても「犬」「猫」の2種類の動物だけは確実に向こうから人間との共同生活を望んで人間に近づき人間と完全に利害が一致して共同生活をしている、これは生物学的に言う「共生」であり一方だけが得をする「寄生」とは全く違うという点です。こんな動物は彼らの他に一つもいません。

私が最初のブログでこの「犬」「猫」という動物が人間にとって特別な存在であり決して今後もその存在が無くなる事は無いだろうと書いたのはこういう歴史的な背景からであり人間の生活様式が進歩すれば彼らもそれに合わせて役割を変えて進歩してくる事は確実だと思うからです。そういう意味で「犬」「猫」という存在は人間にとって他のどんな動物とも全く違います。これまで1万年以上という極めて長い間そうする事で彼らは人間と生活を共にしてきた人間にとって特別な存在です。

あとがき

人間の文明の進歩は人間だけで成し遂げたものでは決して無いと最初にブログで私が書いた事の意味が比喩的なものでも具体性が無い事でも全く無い事が皆様にお解り頂けましたでしょうか?  家イヌという存在が無ければ人間の歴史が旧石器時代で終わっていた可能性もあり、家ネコの存在が無ければ1万年前の人間の生活に恐ろしいダメージを与えていた可能性もあります。過去、現在、そして未来に向かってもこの2種類の動物は人間の進歩に絶対に不可欠な存在であり、彼らにとっても人間の存在が絶対に必要な訳です。

さて次回のブログですが最初のブログでも少し述べた様にこの人間にとって最も身近な存在になっている「犬」「猫」という2種類の動物は同じ食肉目の動物でありながら実は全く違う進化の過程を経て今日の姿がある全く違う動物でもあります。次回は彼らの能力、知力、等について何がどう違うのか、両者とも知能テストを何度も受けているにも関わらず何故どちらが優れているのかが解らないのか等、犬と猫との違いを徹底的に記述してみたいと思います。宜しくお願い致します。

動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(1)

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このブログを始めるにあたっての前書き
人間は決して単独で生きている訳では無く人間同士、または食用として、ペットとして、家畜として多くの生き物とつながりを持って何とか生活しているのが現実だと私は考えています。そういう状況の中で「私は動物が嫌いだ」とか極端な人は「人間が嫌いだ」とか平気で言えるある意味おかしな世の中になってしまっていると私は最近感じています。学術的には「人」という個体自体が類人猿科のホモサピエンスという生物でありながら「人間が嫌い」という理屈が成り立たないのが解らないのか、毎日食べている食料が他の動植物であるのを理解できていないのか、こういう人の考え方が私には全く解りません。
はっきり言えば人間の文明の進歩も人間だけで築き上げたものでは無く、多くの他の動物の力を借りて今日の文明が存在するわけで、食料としての牛や豚や鶏、乗り物としての馬の存在、狩猟や番犬としての犬の存在という家畜や孤独を癒すためのペットとしての猫やウサギや鳥などの小動物の存在は人間の文明の進歩とは深いかかわりを持っています。
では何故私がこのブログを始めるのにあたってまず「犬、猫」を取り上げるのかといえばこの2種類の動物は最も人間生活に直結しており他の家畜やペットとは全く違う存在になりうるからです。犬、猫はペットという枠を完全に抜け出して飼い主の家族や親友になりうる唯一の人間以外の動物であり、あらゆる意味で他の動物とは違います。
現在少子化に悩まされている日本でさえこの2種類の動物の飼育数は増え続けており、ペットフードの消費量から考えて15歳以下の子供よりも数が多いのは確実だと考えられます。しかもこの「犬」「猫」はともに肉食獣であり、本来は人間と対立していてもなんの不思議も無い動物です。それにもかかわらず現代でも彼らは人間と最も近い位置にいる事は明白であり最も信頼できる人間のパートナーになっているのは何故なのでしょうか?    理由はいくつもあるでしょうし学者は学術的な解釈をいくつも出して来るでしょうが素人である我々一般人にはなかなか理解するのは難しいと私は思っています。「犬」「猫」に関しては多くの飼育やしつけなどの専門書も出版されており月刊雑誌さえ複数出版されていますがこうした根本的な事柄に触れたものは私はあまり拝見しておりません。そうであれば私なりの考えをブログに書こうと考えたのがこのブログを始めるきっかけになりました。
単純に言えば先ほどの「何故彼らが人間に最も近いパートナーになりえたのか?」という回答は意外と簡単であり、極めて高い知能と優れた適応能力を持っているという一点に尽きると思います。しかしそういう視点だけで見れば例えば一部の類人猿やその他の動物でも「犬」「猫」に負けない知能を持った動物はいくらか存在するのが現実です。それでも人間はその他の動物を人間の身近に置くことを避けて「犬」「猫」だけを選んでいつの時代も人間の身近においてきました。こういう歴史的な事実からも目を背けては駄目だと私は考えています。このブログの主題の最後に(1)と付けたのは他の動物と違ってその起源や人とのつながりを考えるのにはとても一度のブログでは終わらないと考えたからで「人」と「犬」「猫」とのつながりはそんな単純なものでは決して無いと私が判断したからです。彼らが人間に飼われ始めた時代から現在、そして未来まで人間は決して彼らを遠ざけることはありえないと私は考えています。
よく『人間が絶滅した後は「ネズミ」と「ゴキブリ」の世界になる』というような言葉を聞きますが「犬」や「猫」を飼った事のある人、現在も飼育しておられる人はこんな世界が絶対に来ないことはお分かりであると思います。「ネズミ」や「ゴキブリ」はたまたま現在の人間生活に自分たちの住む環境が適合しているために数を増やしているだけであり人間の存在が無くなれば彼らも住む環境を失って減少していく事は明白です。
ところが「犬」と「猫」だけはこの枠からも完全にはみ出している存在です。人間から餌をもらい人間とともに暮らしているように見える彼らですがこの2種類の動物だけは人間から離れても充分に生きていく力を持っています。人間から捨てられても「ノラ犬」「ノラ猫」として暮らし自分自身で食物を見つけ住処を探し自由に生きていく事が可能な唯一の動物です。「ネズミ」などとは比較にならない高い知能を持ち、数日間の空腹にも耐える能力を持ち、与えられた環境に自分たちを適合させ独自の社会性を持つ極めて優れた動物である為に逆に半野生化したこの2種類の動物は人間生活に危害を加える存在に充分になり得ます。現在も「ノラ犬狩り」や「ノラ猫狩り」が行われており各保健所にはその為の専用の部署まで設置されている現実は「人間に飼われている」という前提が無ければこの2種類の動物がいかに人間生活に害を与えるかの証明にもなっています。
ではこの「犬」「猫」とはいったいどういう動物なのでしょうか?
今回のブログではまずは彼らの本来の姿を解明していく事から始めたいと思います。宜しくお願い致します。
肉食獣の定義
「犬」も「猫」も肉食獣ですが他の動物の肉を餌とする動物が肉食獣であるのなら人間も肉食獣になってしまいます。他にもイノシシは動物の肉を好んで食べますしサルの中には群れで狩りをして他の野生動物を食べるものも少なからず存在します。では彼らも肉食獣なのでしょうか?
それは全く違います。人間も含めていくら肉を食べようとも彼らは肉食獣とはかけ離れた存在です。
肉食獣とは学術的には「食肉目」に入っている動物の事で最初から他の動物を餌をする為に進化した動物の事でいくつかの特徴があります。
「犬」や「猫」を飼育されている人は彼らを怒らさないように慎重に彼らの顎を動かしてみていただけると解ると思いますが、両者とも顎は上下にのみ動き決して人間の様に左右に動かないのが解ると思います。これが肉食獣の第一の特徴です。
ハサミを考えて頂ければ解りやすいと思いますがハサミで物が切れるのは上下にのみ動くからであり、左右に動けば決してハサミで物が切れない事はお分かりになると思います。食肉目に属する動物はその強靭な顎の力を上下にのみ動かす事で獲物となる動物に100%顎の力を使う事が可能であり相手に致命的な損傷を与える事が可能になります。
サルの中にもヒヒ類、特にマンドリルなどはヒョウよりも確実に大きな牙を持ち、体重もヒョウとはあまり変わりませんが現実的にはヒョウの獲物にしか過ぎない理由がここにあります。ヒヒの牙が威嚇が目的であるのに対してネコ科であるヒョウの牙は獲物を倒すための実践的な道具です。その道具の威力を100%伝える為に顎は上下にしか動きません。肉食獣の顎は決して左右に動かないように初めから固定されています。
次に鎖骨の退化です。肉食獣は原始的な動物ほど鎖骨が大きく、最も進化したネコ科やイヌ科では鎖骨と呼べるものが殆ど残っていません。攻撃に爪を使い、木に登るネコ科はイヌ科の動物よりも鎖骨が大きいですがそれでも人間と比べれば無いのも同様です。
これは獲物を追いかける為の走力を最大限に発揮する為です。逃げる動物のほうが追いかける肉食獣よりも走力が優れている事はありえない話であり、こんな事があるのであれば肉食獣は飢死してしまいます。
最速で地上を走る動物がネコ科のチーターであるのは有名な話であり、チーターの脚力は走り始めてから2秒で80キロを超え最高時速は100キロを超えます。このスピードは100メートル走を3秒台で走り切る計算になり人間から考えれば恐ろしいスピードです。一見鈍重に見えるライオンでさえ瞬間時速は80キロに達すると言われ総じてネコ科の動物はスピードランナーです。但しネコ科の動物は総じて短距離ランナーであり2キロほどしか全速力で走る事は出来ないようです。
さて、ここで皆様に考えて頂きたい事があります。全速力で2キロも走れる動物を短距離ランナーと呼ぶのは不思議だとは思いませんか?
人間にとって全速力で2キロを走り切ることなどまず不可能です。そんな事が可能であるのであれば1500メートル走は短距離走になってしまいます。ネコ科のスピードランナーたちを短距離ランナーと呼んでいるのはあるもう一つの肉食獣と比較しているからです。
言うまでも無くそれはイヌ科の動物たちです。実は木の上からも獲物を狙えるネコ科と違って走って獲物を捕まえる事に特化して進化したのはイヌ科の動物たちです。ドッグレースを走るグレイハウンドの最高速度は65キロほどであり、野生のイヌ科の動物たちもそんなにスピードは速くありません。但し彼らには驚異的なスタミナがあります。体と比較して大きな口、大きな肺を持つイヌ科の動物はその最高速度で数時間走る事が可能です。勿論捕まえる獲物のほうが足が速い場合も多々ありますが、ひづめを持つ草食獣は数時間も追いかけられるとひづめが熱を持って割れてしまい歩けなくなってしまいます。イヌ科の大型獣はそれを捕まえます。相手のほうが逃げ足が速く姿が見えなくなってしまうことも多いのが現状です。そのためにイヌ科の動物は嗅覚が非常に発達しています。見えなくなった獲物を嗅覚で探し出して最後は捕まえてしまう、これがイヌ科の動物の狩りです。目で獲物を見つけて瞬発力で一瞬で獲物を倒してしまうネコ科と優れたスタミナを生かして鼻で獲物を見つけ出し持久戦で獲物を倒すイヌ科、この両者はともに高等肉食獣でありながら全く違う進化の過程を経て今日の姿があります。
肉食獣の進化
今回のブログの最後の課題として肉食獣の進化について触れておきたいと思います。
肉食獣、正しくは食肉目の一番原始的な形としてクマ科が挙げられていますが、これはクマ類が雑食傾向にある事や冬眠をする肉食獣である為にクマ科が原始的な形である訳ではありません。肉食獣の進化はその歩き方から区別して進化の過程を探る事が出来ます。
よく怒ったクマが二本足で立ちあがって襲い掛かる姿を拝見した事のあるかたも多いと思います。それに対してネコ科やイヌ科の動物が自然の状態で二本足で立ち上がる姿など殆ど見られません。猫が音も無く忍び寄る事が出来るのも、犬が驚異的なスタミナを持って走る事が出来るのもすべてはこの歩き方に原因があります。
クマが二本足で簡単に立ち上がる事が出来るのは人間と同じように常時かかとまでつけて歩行しているからです。そういう意味では人間の足もまだ原始的であると言えると思います。パンダが立ち上がって可愛いしぐさをするのもこの為でこの歩き方を蹠行と呼びこの歩き方をする動物を蹠行性肉食獣と呼びます。
これがもう少し進化すると走る時だけかかとを上げた状態になります。イタチ科やアライグマ科、一部のジャコウネコ科がこれになり、この種を半蹠行肉食獣と呼びます。
そして究極の状態まで肉食獣が進化すると指の先だけで歩き走るようになります。この特徴を持っているのがイヌ科とネコ科です。これは指行性肉食獣と呼ばれて最も進化した肉食獣の特徴です。犬か猫を飼っていらっしゃるかたは足の裏の肉球をよくご覧ください。一見人間の掌の様に見えますがそこは掌では無く、指の付け根です。では犬や猫の掌はどこにあるのかと言えば親指の上のあたりに小さな肉球が見えると思います。そこが彼らの人間でいう掌になります。
この指行性肉食獣にはもう一つ大きな特徴があります。哺乳類の指の数は手、足ともに5本指であるのに後ろ足の指には親指が無く4本指である点です。前足の親指は地面に接していなくても獲物を捕らえる鉤爪となる為に残っていますが指先だけで行動できる為に後ろ足の親指は無用のものとなり退化して地面に設置する4本だけが残っており、後ろ足の親指はありません。この特徴がネコもイヌも高等肉食獣と呼ばれる所以です。
また大脳皮質も非常に発達しており小さいながらもイヌもネコも究極の進化を遂げた肉食獣である事に間違いはありません。
あとがき 
いかがでしょうか? いつも身近にいる皆様の相棒である犬や猫が実はかなり進化した動物である事がご理解頂けたでしょうか?
こういう話をすると猫好きの人からも犬好きの人からも良く聞かれる質問があります。
それは「犬と猫とはどちらが賢いのか?」という質問です。この答えは「解らない」としか言いようが無く動物学者でも答えは出せないと思います。犬と猫とは体形や歩き方まで良く似ており同じような進化の過程を歩んできたように見えますが実際はかなり古い時代から分化しており全く違う動物です。肉食獣の本道を進化してきたのは間違い無くネコ科であり先ほど私が述べた様な進化の道を辿ってきたと考えられます。これに対してイヌ科に近い食肉獣というのはアシカやオットセイなどになってしまいイヌ科以外で陸上で同じ様な進化の道を辿ってきた動物が殆どいないのが現実です。見た目は犬とよく似ているハイエナなどもジャコウネコに極めて近くネコ科に近いのが現実です。イヌ科は多分極めて古い時代に分化した食肉獣が独自の進化を遂げたとしか考えられず結果としてネコ科の動物によく似た形になってしまったとしか考えられません。但しイヌ科自体の分布図はネコ科の動物よりはるかに広く食肉獣で現在最も分布が広いのはアカギツネであり、かつてはアカギツネより分布が広かったのに人間によって絶滅させられて現在では希少な動物になってしまったのがオオカミです。ですから「犬と猫がどちらが賢いのか」など比較できないのが現実です。しかしただ「解らない」では味気ないので一言付け加えさせてもらうと「どちらもかなり賢い」というのが現実です。人間を含むサル類の中でも犬や猫の知能を上回るものはほんの少数派であり両者とも極めて優れた知能を持っている事だけは確かです。だからこそ両者ともただのペットなどでは無く人間の親友に、家族の一員になり得る存在である訳です。
次回のブログは今回の続きとして犬、猫の人間とのつながりの歴史を記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。     

日本の改革者

日本の改革者たちの政治的立ち位置

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前書き

前回のコミュニティの趣旨で私はこれまでの保守系の立場を捨てて白紙の状態でコミュニティを立ち上げたと書きましたが、これは歴史からも学んだ事でした。

前回に書いたようにこれまで日本の歴史の中で3度の大改革がありましたがその当事者たちの政治的な立ち位置は右派なのか左派なのか私には全く解らない状態なのが事実です。今回のブログでは彼ら3人の足跡を辿って皆様に彼らがいったい政治的にはどういう立ち位置であったのか考えて頂くものにしたいと考えています。以前に所属していたコミュニティで「保守とは何か?」と問われたメンバーが「保守とは古き日本の良きものを大切に守る事」と答えていた事もありますし、保守コミュニティの趣旨に現在でもそれに似たような事を書いているコミュニティもあります。しかし現実には歴史を動かし日本を守った改革者はすべて、ある意味ではそれまでの日本の風習、文化、生き方を壊した破壊者たちです。この事実をもってして彼らを売国奴と呼べるでしょうか?

少なくともその時代当時には彼らはすべて多くの人から売国奴だと思われていたと私は思います。大きな改革を断行するためにはそれまでにあった既成観念を良いものも悪いものもまとめてひっくり返す事が必要で既存のシステムの中で暮らしていた人々から見れば改革を断行するものは大悪人です。では日本史上で彼らが何を捨てて新しい何を取り入れていったのか個別に見ていきたいと思います。宜しくお願い致します。

聖徳太子

実は記述するのが一番難しいのがこの「聖徳太子」です。時代は古くなれば古いほど現在の価値観念から遠く離れてしまいますし記述された文献も少なくなってしまうのが現実です。時代が古いほど現在の我々から見て感情の移入も出来なくなってしまう事も現実です。しかし歴史を皆様に伝えるブログで私の推察での聖徳太子像を記述することは控えなければならないと思います。したがってこのコーナーでは聖徳太子が生きた時代とその時代背景、当時の日本が抱えていた国内と国外の諸問題を出来るだけ簡潔で解りやすく述べて何故この時代に改革が必要であったのかを描きたいと思います。

聖徳太子飛鳥時代の西暦574年、用明天皇の第二子として、この世に生を受けました。厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていましたが、幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)といいます。この時代にまだ和暦はありません。日本史に和暦が登場するのは太子の死後、大化の改新の後の「大化」が最初です。太子が生まれた時代の日本は決して独立国とは言えず中華王朝である隋の朝貢国でした。日本国内では豪族同士が争っており、特に有力者であった物部氏蘇我氏は激しい争いを繰り返していました。そこに日本初の女性天皇である推古天皇が西暦592年に即位しました。

賢明な皆様にはお解りだと思います。当時の状況は天皇の存亡の危機があったのです。聖徳太子憲法十七条を制定したのも冠位十二階を定めたのもこの危機を救う為には絶対に必要な事であった訳です。さらに太子は誕生してはすぐに消えて違う王朝が出来上がる中華王朝に見切りをつけ隋と闘っていた高句麗と同盟を結び、当時の隋の皇帝である煬帝小野妹子を遣隋使に遣わせて日本の独立国家としての地位を勝ち取ります。煬帝は皇帝と天皇が同一の地位である事を二度の小野妹子の派遣によって認めざるを得なくなります。その後隋が倒れて唐が成立した後に日本が遣唐使を途中でやめてしまう事が出来たのは唐も日本を独立国として認めていたからです。さて、ここまでは聖徳太子の立場は完全に保守派ですよね。

問題なのは聖徳太子摂政という立場になり政治を行えたのは聖徳太子蘇我氏の血縁であり太子を擁立したのも蘇我氏であるという点です。憲法十七条も冠位十二階も蘇我氏の勢力を大きくするものであり国内を鎮めたのも蘇我氏の為であった可能性が非常に高い事です。勿論当時には右派、左派などという言葉はありませんでしたが聖徳太子の業績によって蘇我氏の勢力は実際には天皇以上のものになったというのが事実です。「大化の改新」によって蘇我入鹿が暗殺され蘇我氏が滅ぼされなければ現在の天皇陛下の存在があったのかどうかは極めて疑問です。そういう意味では聖徳太子の業績は今でいう左派的なものであったのは確実です。

織田信長

織田信長の業績は当時仏教勢力が支配して仏教国になりかけていた日本を根元から叩き壊して百年以上続いた戦国時代を「天下布武」という武力で天下を取るという明確なスローガンを掲げてもう少しで日本を統一するという部分にまで高めたところにあります。

足利義輝が殺された後の室町幕府の将軍の座を義輝の弟の足利義昭を擁立して幕府を立て直し、応仁の乱で乱れた京の都の治安を完全に回復させて困窮していた皇族に惜しげも無く金銀を渡して当時仏教勢力によって、特に一揆と呼ばれた一般庶民の暴動を抑えて根元から新しい日本を作り直したのは見事なまでの保守勢力です。

しかし他方で織田信長は将軍から副将軍の地位を何度も提示されたのに完全にこれを拒み続け、堪り兼ねた将軍が兵を上げると将軍足利義昭を都から追放して室町幕府を完全に終わらせて京都御所の裏鬼門に建てられた比叡山延暦寺を僧侶もろとも完全に灰にして当時の天皇であった正親町天皇に退位を求め、皇室には歴の改正を求め、正親町天皇から太政大臣か関白か征夷大将軍になってくれと頼まれてもこれを一蹴するなど完全に極左とも思える一面を見せています。

織田信長が朝廷から恐れられていたことは確実で彼もまた本能寺の変で暗殺されなければ現在の皇室があるかどうかも不明です。しかしその織田信長の意思は豊臣秀吉へと受け継がれ天下を統一した秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」という信長が実行できなかった業績を実現し、その意思をまた徳川家康が次いで江戸幕府を開き日本は250年以上平和な時代を迎える事が出来た訳です。

改革者が殺されても残った者がその意思を受け継いでより浄化された改革を断行していく、そうする事で日本の長い歴史は続いてきた訳です。決して日本という国家の歴史が長いのは偶然でも島国であるからでも無く国家が窮地に陥った時に英雄が突如現れて新しい国づくりを行う事で成り立ってきたわけです。それは次の坂本龍馬の姿に見事に反映されています。

坂本龍馬

明治維新に至る幕末には多くの志士たちが登場し、活躍しました。西郷隆盛、木戸寛治、高杉晋作吉田松陰など現在から見るとヒーローのたまり場になった時代です。

しかしどう考えてもその枠からはみ出してしまうヒーローがいます。それが坂本龍馬です。他の志士たちが自分の立ち位置がしっかりとしているのに龍馬は実にあいまいです。

これまでの二人の改革者と比べても龍馬の地位は比較にならないほど低く、その生涯で直接政治に関れる身分になった事など一度もありません。暗殺された時点でも坂本龍馬の身分は土佐の脱藩浪士であり彼自身に全く出世欲が無かった事は確実だと思います。坂本龍馬の存在も彼が死んで10年以上経ってから徐々に解ってきた事で坂本龍馬の存在も実績もこの時代の誰とも似ていません。

坂本龍馬が江戸に剣術修行に行っている時期に大事件が起こります。1853年7月8日に浦賀沖に来航したアメリカ合衆国マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍が突如日本の徳川幕府に対して開国を求めました。いわゆる「黒船到来」です。

威圧的に開国を求めてくるアメリカに対して幕府は幕府だけでは答えを出せず日本中の大名に意見を求めます。たちまち浦賀に黒船が来た事が日本中に伝わり、「アメリカの要求を呑んで開国すべきだ」という「開国派」と日本に上陸してきた外国人を一人残らず斬り殺すべきだという「攘夷派」に真っ二つに分かれます。

この時点で龍馬が熱心な攘夷派であった事は間違いがありません。土佐の攘夷派の集団であった「土佐勤王党」には彼の名前も血判もしっかり残っています。ところがしばらくすると龍馬は勤王党も土佐藩も捨てて脱藩してしまいます。その後の龍馬は日本中を駆け巡り様々な人に出会います。特に江戸で会った幕臣である勝海舟に深く影響を受けて神戸で蒸気船の操縦技術を学びました。「攘夷派」の志士が異国の技術を学ぶなどは当時は異例の事であり彼と彼の仲間は蒸気船を当時保有していた薩摩藩に雇われます。

この辺りまでは彼は保守系の人間であると言えると思います。ところがその後すぐに彼は幕府に歯向かい朝敵とされていた長州藩に出かけて憎みあっていた薩摩と長州とを「薩長同盟」を結ばせて幕府に対抗し幕府軍が長州に攻め込んだ時には戦に参加して幕府軍を下関で破っています。

では薩摩と長州を味方につけて彼が徳川幕府を倒したかったのかというとそうでもありません。自分の生まれ故郷である土佐藩を薩摩と長州の同盟に加えて武力革命を抑える一方で彼は土佐藩の大名であった山内容堂に15代将軍徳川慶喜に対して「大政奉還の建白書」を書かせて無血で徳川幕府の世を終わらせました。

坂本龍馬の立ち位置は極めてあいまいです。大政奉還を実現させるまでの龍馬は徳川幕府から見れば犯罪者としか見えないほどの左派であり、薩摩、長州から見れば日本の将 来を憂いともに幕府と闘う右派だった訳です。しかし彼が大政奉還を実現したとたんに彼はすべての侍を敵に回しました。薩摩、長州が実行したかったのは徳川幕府を倒す戦であり、大政奉還が決定した瞬間に戦は無くなり、またすべての侍は職を失った訳です。大政奉還が実現した事で薩摩も長州も龍馬を生かしておいた事を確実に後悔したでしょう。近江屋で坂本龍馬が暗殺された犯人を見つける事が困難なのは恨みを持つ人間が多すぎて特定出来ない事と犯人を捜して処罰する気も幕府には無いからです。

この坂本龍馬の立ち位置を皆様はどう考えられるでしょうか?

あとがき

私は日本が好きでこの国を大切にしたい、トランプがアメリカファーストを言うのなら私はジャパンファーストです。理由は私が日本人だからです。

日本を大改革してきた偉人たちがある部分では左派であり、ある部分では右派である事に気づいていただけましたでしょうか?  だから今後の私は「日本の将来を考える」という共通の目的が持てればどんな人間とでも手を組むつもりです。共産党民進党の支持者がすべて売国奴であるとの考えも捨てました。私の力など到底今回のブログで取り上げた3人とは比べ物にならないほど弱く小さいものである事は充分に承知しているつもりです。しかし先人の知恵を学ぶことは決して無駄では無いとも思っています。

皆様、宜しくお願い致します。