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我が国の改革者

織田信長(三)

本能寺の変に向けて

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前書き

先日もテレビ番組でこの織田信長の暗殺事件である「本能寺の変」に秀吉が関係していたという報道があり、こうしたテレビ番組の内容を信じてしまう人が増えるんだろうと考えると少し落ち込んでしまいました。しかしそんな事は決して無いと私は断言出来ます。もし「本能寺の変」で織田信長が暗殺されれば秀吉の天下になるのであれば私は秀吉が明智光秀に加担していた可能性もあると思います。ところが決してそうはならない訳です。その後秀吉が天下人になったのは事実ですがそれはこの「本能寺の変」以降の秀吉の決死の働きといくつかの偶然が重なった結果であり「本能寺の変」の後にすぐに秀吉の天下になった訳では決してありません。現実に「本能寺の変」によって一番苦境に立たされたのは秀吉自身であり彼はそれを乗り越えようと精一杯努力しただけです。

改革者の業績は常に歪められ真実を後世に伝えない様に上塗りされていきます。今回のブログでは私はそうして上塗りされた部分を取り除いて出来るだけ歪められた事実の真相を解明して何故明智光秀織田信長を討たなければならなかったのかまで記述したいと思います。宜しくお願い致します。

本能寺の変」直前の織田家の内部

前回のブログの最後のほうでも少し触れましたが織田信長は暗殺される前にすでに自分がいなくなった後の織田家の将来を考えていました。織田信長は子供に恵まれていましたが信長自身が信長の父の死後に織田家の跡目争いに大変苦労し、結果として自分の弟である織田信行を自分自身の手で殺さなければ収集が付かない事態にまでなった為に自分の死後にはそうした「お家騒動」が起きないようにきちんと手を打っていました。

自分が元気なうちからすべての自分の家督を長男の織田信忠に譲り、次男織田信雄北畠家に三男の織田信孝は神戸家に養子に出しており、家督をめぐって織田家中がもめる事を生前から防いでいた訳です。織田信長自身も自分の過激な行動が世間の恨みを買っている事を充分に把握しており、自分がいきなり暗殺される事も想定していた訳です。

織田信長にもしもの事があれば、その後継者は織田信忠になる事は織田家中では常識であり織田家以外の人間が決して介入出来ない様に信長は最初から考えていました。

ところが「本能寺の変」の直後に織田信長にとって考えなかった不測の事態が起こりました。明智光秀が本能寺で織田信長を討ちとった事を二条御所にいた織田信忠が知ると彼は直ちに明智光秀を討ち取る為に明智軍と戦い、敗れて逆に明智光秀に討ち取られてしまった訳です。これは戦えば確実にそうなってしまう訳であり1万人以上いる明智軍勢に対して「本能寺の変」直後殆ど兵力を持たず戦の準備もしていなかった織田信忠が勝てる筈が無く彼は一旦身を引いて軍勢を立て直した後に明智光秀を討ち取る戦を仕掛けるべきだったのは確実です。明智光秀が謀反を起こして討ち取りたかったのは織田信長だけであり決して織田信忠も同時に討ち取る事を考えていた訳では無く織田信忠は逃げようと思えば確実に逃げ切れたものをその場に留まって戦った為に信長と一緒に討ち取られてしまった訳です。この行為が後の織田家の跡目争いの元になってしまった訳で織田信忠が逃げて生きていれば秀吉が後に天下を掌握する事などは絶対に出来ません。

こういう歴史の事件の真相にはテレビもマスコミも殆ど触れていません。短絡的に後の天下人になった秀吉と光秀が内応していたと考えるのは確実に歴史を歪めてしまいます。決して惑わされては駄目だと私は思います。

乙御前の茶釜

これは「本能寺の変」よりも十年ほど前になりますが羽柴秀吉織田信長から「茶の湯」を開く事を許可され、その証として信長秘蔵の茶釜である「乙御前の茶釜」をもらい受けました。「オトゴゼの茶釜」と呼びます。これが後の「本能寺の変」の後の秀吉の地位に大きく関係してきます。

というのはこの時に秀吉が信長から貰ったものは茶釜だけでは無く信長の四男である「お次丸」も羽柴家の跡取りとして一緒に貰った事です。この「お次丸」は信長の子供の中でも飛び切りの美男子だったと言われています。羽柴秀吉に子供が無く、したがって跡継ぎに不安がある事は織田信長も良く解っていました。羽柴秀吉明智光秀に次ぐ織田軍勢の出世頭であり織田信長も秀吉の力を必要としていたからこそ織田家の重臣にしか許されていなかった「茶の湯」を開く事も許可した訳です。しかし織田信長は同時に秀吉のこの力を警戒もしてもいました。そうした状況の中で自分の血のつながりのある四男「お次丸」を羽柴家の跡取りとして養子に出す事で秀吉が信長に反逆する可能性を完全に消し去った訳です。これは秀吉も全く同じ理屈です。織田信長から養子を貰って羽柴家の跡継ぎにする事は信長から人質を取るのと同じ事です。この養子が自分の家中にいる限り決して信長は秀吉を粗末に扱えません。

つまりこの「養子縁組」は信長にも秀吉にも得であり双方がこれで安心して今後の関係が築けるものであり、この時の秀吉がまさかこの縁組が織田信長の死後に役に立つとは考えていなかった事は明白でしょう。とにかくこの茶釜と養子縁組によって羽柴秀吉は確実に織田家の重臣の一人になれた訳です。

明智光秀織田信長を討つ動機について

さて、話を元に戻しましょう。明智光秀織田信長に決して恨みを持っていた訳でも無く秀吉や家康と内応していたのでも無いのであれば何故明智光秀織田信長を討ち取らなければならないと思ってそれを実行したのでしょうか。

これが人間の心理の複雑な部分でありどうしても感情で動いてしまう人間の性です。この明智光秀と同じ様な心境を実は現在の私も持っています。それは「もうこの人には付いていけない」という人間の持つ感情です。

この「本能寺の変」直前に織田家中ではいくつかの事件が起きました。信長に幼い時から仕えていた重臣である林通勝が突然解雇され大阪石山本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛がその本願寺との交戦中の怠慢をいきなり咎められて高野山に追放された後に切腹させられました。こういうリストラは膨張し続けている織田家中ではまず普通は絶対に起こらない異常な人事です。さらに信長は明智光秀が長年苦労して取り繕っていた四国の長曾我部氏との同盟を一方的に解消し四国攻めの準備をしていました。信長と朝廷との仲が悪かった事は前回のブログで書きましたが、この関係をいつも取り繕ってきたのも都近くに領地を与えられた明智光秀です。そうした中で信長は明智光秀に対して秀吉の中国攻めに参加するように命令し、これまでの領土であった丹波も坂本も取り上げて中国地方明智光秀が攻め取った領土を新しい領地として与えると命じた訳です。

明智光秀が「林通勝佐久間信盛の次は俺の番か」と考えてもなんの不思議も無く、いつも朝廷から苦言を言われる光秀が「討たれる前に討ってしまう」事を考えるのは自然な事です。

本能寺の変」の時の織田家の周りの状況は柴田勝家は北陸で上杉勢と交戦中、羽柴秀吉は中国で毛利勢と交戦中、織田信長と同盟関係にあった徳川家康は大阪の堺に遊びに来ていて都の周りには光秀の軍勢しかいない空白状態が出来ていました。そうした中で織田信長は四条本能寺に殆ど軍勢がいない状況で宿泊していた訳であり明智光秀にとってこれほどの好機は無かった訳です。この「本能寺の変」にはこれらの要素がすべて含まれています。こういう事をすべて無視して光秀と秀吉の内応があったとテレビで報道していた訳で私は非常に疑問を感じました。

もし明智光秀が綿密な作戦を立てて「本能寺の変」を仕掛けたのであれば、少なくとも秀吉などよりもその後の状況を考えて都の周りの有力武将を確実に自分の味方に付けている筈です。主君の信長を討った事で織田家中の有力大名と戦になるのは必然でその戦に備えてそうした自分の味方になる武将を事前に周りに付けておかないと確実に自分が殺されます。しかし「本能寺の変」の後に光秀に味方した武将など殆どいません。明智光秀の義理の息子である細川忠興(妻は光秀の娘である細川ガラシャ)ですら「本能寺の変」の後には全く光秀の味方をせずに唯一光秀に応じると返答をした大和の筒井順慶も出陣しただけで軍勢を京と大阪の間にある洞ヶ峠で完全に止めて天王山で光秀と秀吉との戦いを見て秀吉が優勢だと解ると簡単に秀吉側に寝返りました。

こうした事から考えても明智光秀に「本能寺の変」で内応した武将など誰もいない事は明白で突発的に明智光秀が本能寺の信長を討った事が良く解ります。この結果明智光秀本能寺の変から11日後に山科の小栗栖で絶命してその生涯を終えました。光秀のこの「鬼退治」は結局誰からも支持されなかった訳です。

あとがき

テレビでは秀吉と光秀が通じていた理由として俗に「中国大返し」と呼ばれる秀吉軍が信長の死後から10日ほどで200キロに及ぶ道を大軍勢のまま帰ってきた事を「光秀と秀吉が内応していた証拠」として述べていましたが、これは秀吉の巧妙な時間を使ったトリックであり、この番組は400年以上経ってもまだ秀吉のトリックに騙されているのかと私は呆れました。

この「中国大返し」も事実でその距離とスピードが驚異的なのも事実ですが一番大切な「秀吉の戦のやり方」を理解できていないとこの「時間を使ったトリックの謎」は絶対に解けない為に「秀吉と光秀が本能寺の変で内応していた」というとんでもない結論に持っていかざるを得なくなります。そんな可能性は限りなくゼロに近く「本能寺の変」によって一番窮地に追い込まれたのは確実に秀吉です。この秀吉の「天才的な性格」を考えない限り決して真実には迫れません。後に関白太政大臣となり太閤にまで上り詰め、朝廷から「正一位」という天皇陛下の次の位まで勝ち取った世界史にもこれほどの出世を遂げた人間は他に一人も見つからない豊臣秀吉という人間は織田信長とは全く別の意味で飛び抜けた存在でありこの「天才的な性格」だけで彼が人臣の極限まで上り詰めた歴史の事実は動かしがたい真実です。

次回のブログではもう一度「本能寺の変」の時にまで戻って、本能寺の変の時の信長が見せた意外な一面と何故秀吉がこうした「中国大返し」を平然と行い、明智光秀を破りその後実質上織田信長の後継者になれたのかを出来るだけ解りやすく謎解きをしてみたいと考えています。宜しくお願い致します。