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予言者を斬る

バレンタインとノストラダムス

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前書き

本日はめでたいバレンタインデーであり日本中あるいは世界中で歓喜と落胆の思いが入り乱れる人が続出するかもしれません。

さてここで私が取り上げたいのはバレンタインとノストラダムスは同じであるという事実です。別にこれはノストラダムスに限りません。マヤの終末予言であろうがピラミッドの人類予言であろうがまた多くのその宗教の真理を知らない人にとってもこれらはすべてバレンタインデーと何も変わりません。これはどういう意味であるかというと真理を知らずに深く思い込むのは危険だという事です。

バレンタインデーがどういう日であるのかは私が申し上げるまでも無く皆様がご存知だと思います。では聖バレンタインって誰の事で何故この名前が付いた日が愛の告白をする日になっているのかご存知の人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?    勿論こんな事は知る必要もありません。自分の感情に素直に慣習に従ってこの日を過ごせば全く問題が無い訳ですが、こういう風に「真理を知らずに宗教や予言者の言葉に乗せられると危険ですよ」と私は言いたいだけです。

聖バレンタイン

聖バレンタインとは紀元3世紀のローマ皇帝グラディウス2世の時代にインテラムナの司教であったバレンタインの事です。この時代にローマ皇帝グラディウス2世は「兵士は結婚すると士気が落ちる」という理由で兵士に「結婚禁止令」を出していました。しかしインテラムナの司教バレンタインはその無茶な布告に対して若い恋人たちにこっそりと結婚式を挙げてあげていました。その事が発覚してバレンタインは皇帝の前に引きずり出されてローマの神々への改宗を強要された訳です。しかし彼はあくまでも改宗を拒否し紀元270年2月14日に棍棒と石で打たれ首を切られました。

この頃のローマでは毎年2月15日にルベルクスという祭典があってその日には「恋人選びのくじ引き」が行われていました。恋人が欲しい10代の娘たちが自分の名前を書いた紙を箱の中に入れてそれを男性が引く訳です。こうして多くのカップルが毎年生まれていたのですがバレンタインの死後から約2世紀後の紀元496年に法王ゲラシウスは異教の祭典であるこのルベルクスを禁止して代わりにその前日の2月14日を恋人たちの守護聖人バレンタインの日に決めた訳です。この法王の処置に若者たちは大きく不満を持ってくじを引く代わりにその前日の2月14日に自分の好きな相手にカードを贈る事を決め、やがてその習慣は西欧世界全体に広がり「2月14日は想いを寄せる人にカードを贈る日」として定着していった訳でこれが「バレンタインデー」です。

チョコレートの話など全く出てきません。それは日本のチョコレート業界が売り上げを伸ばす為に考えた戦略です。私はそれで良いと思います。「日本のバレンタインデー」としてオリジナルなものになり今後世界に向けて発信する事も出来ます。

ところがこの手法が予言の解明という自分の本の売り上げの為や自分の宗教の宣伝に使われている事でこれは私は大問題だと思っています。今回のブログはそうした本を書いた予言者に絞ってこの事実を検証したいと考えています。宜しくお願い致します。

予言詩の原文をきちんと読めない予言解釈本の著者たち

これはノストラダムスに限りません。世界に残るいわゆる「未来を予言した詩」を正確に読める日本の予言解釈本の著者は殆どいません。

この事がどれだけ奇妙な事か、

「英語が解らないシェイクスピアの専門家」「日本語が解らない紫式部の解説者」

こんな人間があり得ない者である事は誰でも解ると思います。紫式部の「源氏物語」を日本語の苦手な外人が英和辞典片手に英訳したら全く意味不明の訳の解らない文脈になるのは当然です。正直に言えば日本人である私でも「源氏物語」をきちんと読めません。正確に読むのならその当時の言語の読み方を学び、その当時の時代背景や風習などをきちんと学習しなければしっかりした物語が見えてこない事は明白です。

ところが外国の予言の解釈という分野の本の著者においてはこうした類の連中ばかりです。ノストラダムスでさえ400年以上前のフランス人であり彼の当時の時代背景やフランス史への深い理解は絶対に必要であり、それよりもはるか昔の「ピラミッド」や「マヤ遺跡」などに書かれている文章をきちんと理解して日本語の本を出すのはどれほど難しいのか皆様はお解りになると思います。そういう作業を放棄して絶対にまともな予言解釈など出来る筈がありません。

ノストラダムスやマヤ遺跡の予言が当たらないのはノストラダムスやマヤ遺跡に問題があるのでは無く、この予言解釈の著者に大きな問題がある訳です。「バレンタインのチョコレート」は日本の文化として世界に発信できても、こういう予言解釈者の存在は日本の恥にしかなりません。彼らの終末予言の解釈の見出しは自分の本を売る為の確信犯的な詐欺であり、そういう類の本を買う人間を彼らは自分たちより程度の低い人間だと見下しているとしか私は思えません。本質を見ずに真剣にこうした類を考える事はその人の人生を狂わせてしまう大きな危険を伴います。お気を付けください。

予言解釈者の奇妙な原則

こうした予言解釈者には奇妙な共通点がいくつかあります。

1、予言研究者が自己流に予言を解釈してもその予言は決して当たらない。

2、彼らの出す本の解釈はバラバラであり殆ど共通しない。

3、彼らは他の予言解釈者をしばしば非難するが、その批判はその研究者自身にも当てはまる事ばかりである。

4、彼らは自分の予言解釈がはずれても決して反省せず、はずれた予言を信じた人にもなんの責任も取らない。

1~3までは「自分の本を少しでも売りたい」と思う商売の為だと思いますが問題は4です。自分の本を買ってくれて自分の書く事を信じてくれた読者に対しても彼らは全く反省せずなんの責任感も感じません。

これは一見経済評論家の書く本とも似ていますが、全く違うのは経済評論家は最初から「投資は自己責任です」との一文を書いていて自分の書いた通りにはならない場合がある事も初めから認めているのに対して、予言解釈者にとって自分の解釈は絶対であり、はずれた場合の個人の被害については何も考えていない時点で大きく違います。「予言解釈」以外の未来を予測する人のほうが確実に誠実であり自分の書く本の知識についても予言解釈者と比べ物にならないほど良く研究しています。一見同じように見えても現実には彼らの思考や責任感は全く違います。

「経済評論家で金持ちの人はいない」とはかなり的を得た言葉であり、経済評論家の書く未来の経済はあまりあてにはなりませんが少なくとも経済評論家は未来の経済を自分なりに熱心にまじめに研究してその結果を本にして出版しています。彼らが「経済」で収入を得ているのは明白でありはずれた事ばかり言ったり書いたりしていたら自分の生活が成り立ちません。「予言解釈者」などとは全く離れた厳しい世界で彼らは生きています。この違いを明白に皆様にも解って頂いて怪しげな「予言解釈書」や「宗教」には決して惑わされない充実した人生を過ごして頂きたい気持ちです。

あとがき

私が何故こうした予言解釈者たちの事を良く知っているのかと言えば実は私自身がその読者であり多くの本を買って読んだ経験があるからです。終末予言の全盛期には私はまだ学生であり、一生懸命アルバイトで働いて得たお金でこうした予言解釈の本を数十冊も買い求めました。現在でも殆どすべてこれらの本は手元に残っています。

つまり今偉そうにブログで「騙されたら駄目だ」と書いている私自身が見事に騙されていた訳で皆様に偉そうな事を言えるほど私自身が賢くありません。私自身が「この予言は当たる」と思ったからこそお金を出して買った訳でありそのすべては見事にはずれました。

次回こうしたブログの続編を書く時には彼ら「予言解釈者」が何を言っていたのかを実名とその内容について具体的に書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。