宗教について

宗教を考える

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前書き

ここまで私は「日本の改革者」について思うように書いてきた訳ですが彼らは100年に一度出るか出ないかの存在であり「天才」と呼べなくもない訳ですが「世界」という視点から考えると数百年、あるいは千年に一人出るか出ないかの存在もあります。

彼らの枠は一般的に「天才」と呼べる人間すら飛び越えており「人間」という枠すら確実に抜け出している存在で「聖者」としか呼べない存在です。

日本史に何度か現れる改革者ですらその業績が捻じ曲げられてその存在が歴史教育においてすらきちんと教えられていない訳ですから、そういう「奇跡の存在」の歴史は「宗教」という枠組みに入れられて「疑う事すら許されない存在」になっている訳です。

今回のブログでは思い切ってその「世界史上の奇跡の存在」である「仏陀」と「イエス」について触れてみます。「マホメット」についてあえて触れません。それは「マホメット」がこの二人に決して劣っている訳では無くその理論や教えは非常にこの二人に似ています。違うのは「マホメット」が自分の教えを初めから「宗教」として説いているのに対して「仏陀」と「イエス」は「人間がどう生きていくべきか」という事を説いただけでありそれを宗教にしてしまったのは間違いなく後世の人間です。特に後世の権力者が自分の都合の良い様に何度もその教え自体を捻じ曲げており殆ど原点が見えなくなってしまっています。

したがって私が今回記述したいのはその原点です。今後もその業績がその時代の都合によって捻じ曲げられていくのは確実だと思います。この二人の教えはそれほど崇高であり今後の世界において同じレベルの人間が現れるまでまず理解不能であると私は考えています。今回のブログではその原点を見る為に「聖書」も「仏典」も全く用いるつもりはありません。仏陀が「仏典」を書いた訳でもイエスが「聖書」を書いた訳でも無く、すべてその作業は後世の人間の創作でありそういう書物を参考にすれば確実に原点から外れてしまいます。その教えを「疑っては駄目だ」などと言い出したのは本人ではなく確実に後世の人物であり私が書きたいのは人間としての「仏陀」や「イエス」です。

私はどんな宗教であれまず疑って見ています。「疑うな」という宗教はすべて偽物だとも思っています。かといって現在は特別な宗教に入っていない私ですら宗教は絶対に必要だと思いますし、自分が帰依出来る宗教があれば是非とも入りたいと考えています。それほどにこの二人については誤解が大きい訳です。そういう訳でこのブログに関しての皆様のご理解とご了承をお願い致します。

人間 釈迦

いきなりですが釈迦は悟りの境地になど達してはいません。人間としての生き方に疑問を感じない部分まで到達しただけです。出家した釈迦が「悟り」を求めていた事は確実でしょうが「悟り」を求めなくなって初めて釈迦は「仏陀」になられた訳であり、「仏陀」としての生涯をその後過ごされただけです。これは「イエス」も全く同じです。約2600年ほど前に「人間 釈迦」として生きたのが現実です。

「欲を捨てる」為に修行する自分が「欲を捨てる」という大きな欲望に動かされている事に途中で気付いた釈迦はそれ以降一切厳しい修行をしていませんし、死後の世界を語った事も全くありません。

その事に気付いて以降、釈迦が弟子に説いていった事は

「人間は欲望で動いている動物であり、人間だけが持つ大きな欲望はなるべく捨てて生きるべきだ」

という事だけで「人間の最も大きな欲望」とは「悟りを得たい」とか「死んだ後に極楽に行きたい」とか思う事であり「幸せになりたいと思うほどその人の人生は不幸になってしまう」という真理です。「極楽に行く為に苦難の人生を歩む」事は無駄であり「現生の自分の人生をその役目に従って生きる」事が重要だと説いた訳です。これでは全く宗教にならない為にその業績が恐ろしく捻じ曲げられて「仏教」になっているだけです。釈迦がたどり着いた結論はもっと単純で明快なものであり「正しく生きましょう」という事だけです。迷いが生じた弟子の前で釈迦が手を叩いて「今音がしたのは右の手か左の手か?  あなたはそんな事で悩んでいる」と述べた事は有名な話であり「結論の出ない事で悩むことは無駄だ」という崇高な理論です。これは「宗教」よりも確実に「哲学」でしょう。

人間 イエス

イエスの生き方も全く同じです。私が「イエス キリスト」と書かずに「イエス」と書いているのは「キリスト」とは救世主の事でありイエスはその生涯で自分の事を「救世主」であると名乗った事は一度もありません。確実に後世の人間の創作でありだから私は「聖書」も「仏典」も全く用いない訳です。特に「聖書」はその創作が酷すぎます。

イエスの「誕生秘話」から「復活」まであんなものをまともに信じたら絶対に「人間」としてのイエスから遠く離れてしまいます。

イエスのその業績は他人の為に自分の命まで犠牲にしてつくした「人間愛の生涯」であり、彼が一般庶民にその生涯をかけて解放したかった宗教は「ユダヤ教」であり自分の教えでは決してありません。イエスが自分の事を「神の子」であると言っていたという話も疑わしく、「神はどこにいるのか?」と聞かれたイエスは「神はあなたの心の中にいる」と答えておりイエス自身が自分の事を「特別な存在」だとは考えていたとはとても思えません。。イエスも人間の欲望の否定など全くしていません。クリスチャンが聖杯という形でワインを飲むのがその典型です。

「イエスはお酒が好きだった」  ただそれだけの話に理屈を付けているだけです。

こういう飛び抜けた人物の所業は普通の人間には理解しにくい為にどうしても神話化してしまいます。その最たるものが「聖書」であり「人間が生きていく教訓」としては非常に役に立ちますがイエスを神格化した部分はすべて後世の創作と考えたほうが良いと思います。

仏教キリスト教

こうして原点を見ると良く解るのはイエスと釈迦はそっくりだという事です。「仏教には神がいない」と思うのは早合点であり、釈迦はブラフマン梵天)に導かれて出家してその修行を常にマーラと呼ばれる蛇に変化した悪魔に邪魔されています。その原点ではキリスト教仏教は似ている部分が非常に多いのが特徴であり、全く違うものに変わってしまったのは明らかに後世の人間の創作による意図的な操作としか思えません。この二人がもし同じ時代に生まれていても全く対立する部分は無く、同じ宗教になっていた可能性が高い訳です。歴史やその地方の行政や政治体制が違う為にこの二人の業績に差があるように見えるだけで全く違ったものに変わってしまったのはすべて後世の人間が自分に都合がいい様に創作し続けた結果です。仏教徒でありながらキリスト教に入る事もその逆も、この原点の二人から見れば何も問題はありません。その原点の教えは全く同じです。

宗教に変わった訳

これまで私はこの二人の業績が「捻じ曲げられた後世の人物」のせいであると書いてきましたが、だから「後世の人間が創作したのは間違いだ」とは単純には思いません。

これほどまでに傑出した人間がいきなり現れたら後世にその業績を正しく伝える事は無理であり、どうしても神格化しないと伝えている自分がみじめになるだけであり、ある程度の着色は仕方が無いと思います。

但しこの二人ともそうした着色が「権力を維持する為」や「他民族を滅ぼす為」に使われてきた悲しい歴史があるだけでこの二人にはそうした目的は全く無く何の責任もありません。

人間がいつから宗教というものを始めたのかは、はっきり解りませんが最初は太陽やイナズマなどのその当時の人間には解らなかった人間の存在を超えるものを拝みだしたのが最初であり、この二人の存在は大きく普通の人間を超えるものであった為に宗教化したのは仕方が無いとも思います。

私は最初に述べた様に「疑って疑って」この二つは今後も続いていく宗教だと認めています。ですからこの宗教に入信しているかたに是非ともお願いしたいのは正しい方向に導いてほしいと思うだけです。熱心に信仰している人の数だけでもこの二つとも「億」を超える信者がおり方向を間違えれば戦争になる危機もあります。人間の道徳や倫理観に宗教は不可欠だと私は思いますが権力や戦争の道具に使う事には反対です。

これはこの二人の聖人の意思でもあると私は思っています。原点を大切にしてください。

あとがき

仏陀やイエスの教えを難しく考える必要は全く無く逆に「単純、明快で真理を付いている」事がこの二人の共通点であり、その目的も「死後の世界」にある訳では無く「人間としての生き方」にあり、そういう目的で聖書や仏典を読まれるのであれば大きく人間として進歩するきっかけになるのでは無いでしょうか。

彼らは普通の人間ではありませんが「人間としての完成形」と言っても過言では無いと思います。

イエスは十字架にかけられ釈迦は自分の国家であるカピラバストウを滅ぼされましたが彼らは一切暴力や権力に頼らずにその思想だけで国家を統一し2000年以上たった現在でさえ影響力を与え続けているずば抜けた存在です。悪用すれば国を滅ぼす事も出来る一面を持ちながらきちんと使えば充実した人生が送れるその思想は気高く崇高な人生の哲学です。幸せな人生を送る材料にしたいものです。