我が国の改革者

織田信長(二)  

鬼と人と

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前書き

完全に豹変した織田信長と対面する事は鬼と対面する事と何も変わりません。日本国内には「鬼伝説」がいくつもあり、その「鬼」と呼ばれた者の正体が何であったのかははっきり解らない事ですが、戦国時代に突然現れた「鬼」はまさしく織田信長です。

日本人の性格はこの当時の世界から見て確実に優しい人間であり戦のやり方からその後の処理までヨーロッパや中国に比べれば信じられないほど甘いものでした。ところがこの「日本人の性格」に織田信長だけは含まれません。彼だけは確実に「別枠」であり他のどんな日本人とも全く違います。戦国時代の日本人でも「戦」とは侍同士の戦いであり侍の究極の目的とは最強の侍になり中央から「天下を治める」事であり現実的には朝廷から征夷大将軍の位を頂き幕府を開く事でした。しかし織田信長だけは全く違います。彼が殺した民衆の数は少なく見ても数十万人はいてその大半は武士以外の一般庶民です。現在までの日本の歴史の中で「一般庶民の大量虐殺を行った人物」は織田信長ただ一人だけであり、その目的は当時の最大の既得権益である仏教勢力を叩き潰す為であり、この仏教勢力のクーデターである「一向一揆」を壊滅させる為に彼は一般庶民を殺す事も仏教の僧侶を殺す事にもなんのためらいも無く実行して見せました。全国を行脚して回る「高野聖」は見つかり次第殺されて、その死者数は3千人を超えています。朝廷の御所の裏鬼門に朝廷守護の為に建てられた比叡山延暦寺を完全に焼き払い、延暦寺にいた人間を女子供まで6000人以上皆殺しにしておいて朝廷を全く無視し、御所の一部を壊して馬の品評会を行い、朝廷から受ける冠位を断り続ける織田信長と対面する事は確実に「鬼との対面」でしかありません。その思想も確実に「鬼」であり世界史を見渡しても生きている間に自分の事を「神」として扱い「神として敬われる事」を求めた人物など私は織田信長以外には一人も知りません。

しかしどんな既得権益の持ち主でも織田信長の家臣であっても信長以外の人間は確実に「人」でありこの時代の日本は「一人の鬼とその他の日本人」で構成されている非常に奇妙な状況でした。信長の暗殺事件である「本能寺の変」は「人」にとってはまさしく「鬼退治」であり今回のブログはそうした側面からこの「鬼と人と」の関係を書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

豹変する前の織田信長の姿勢

やはり今回のブログも豹変する前には織田信長がどういう態度でそれまでの体制に向かい合っていたのかから書かせて頂きます。そして豹変後と比較しないと真実が見えてこないと私は思うからです。

まず、織田信長が都に入った目的は「没落しかけていた室町幕府を立て直し応仁の乱で荒れ果てていた京の治安を回復させる為」であった事は間違いがありません。彼は十四代将軍足利義輝が殺され空白になっていた将軍職に義輝の弟である足利義昭を推挙して十五代の将軍職に付け将軍が安心して暮らせる城として二条城を建てて室町幕府の立て直しにひたすら努めました。荒れ果てていた朝廷の御所を綺麗に整備して京の街並みを整えて乱れていた都の治安を完全に回復させました。その為にかかった膨大な出費をすべて自ら負担しており、確実に織田信長はその時の朝廷や室町幕府にとって待ちわびていた人物であった事は確かだと思います。この時代の織田信長は将軍から与えられる冠位は断りましたが朝廷から頂く冠位はありがたく受けており、それまであった体制に対しての態度は極めて従順であり、石山本願寺を攻撃する為に自分から朝廷に次の征夷大将軍の位を頂く事を願い出た事もあります。この頃織田信長が敵対していたのは、いたるところに関所を持つ仏教勢力だけであり、関所が無くなり一般庶民の往来が増えれば経済が活発化するとの考えの基に東海道を整備し、独占企業の元となっていた「市」や「座」を廃止して民間の企業参加を積極的に応援しました。自分の「本城」である「安土城」の築城ですらほとんど口は出さず、城を造る専門職の職人を選定する基準として「天下一」の称号を与えてその職人の持つオリジナリティを第一に考えていた程です。この頃の織田信長の目指す「理想の国家像」とはそれまでに日本に根付いてた国家体制から出来るだけ既得権益を排除して国益を上げる事であり、その完成形が現在の日本の「民主主義国家」の体制と極めて近いものであったと私は考えています。

豹変後の信長の政策

まず最初に述べておきたいのは信長が豹変するきっかけになった「第一次信長包囲網」を考えたのは十五代室町幕府将軍である足利義昭であるという事実です。

織田信長は朝廷に対しては豹変するまでは従順でしたが将軍に対しては全く別であり、本来は将軍職が行う筈の政治を織田信長の独断で決めており征夷大将軍としての仕事を足利義昭には全く何もさせませんでした。これは「応仁の乱から極めて乱れた世の中になった責任はすべて室町幕府の政治姿勢が原因だ」という織田信長の強い思いがあったからだと私は思います。だからこそ織田信長は将軍職を回復する努力はしましたがその将軍の動きには極めて厳しい規制を入れて将軍が政治を行う事を阻止し続けました。織田信長にとっての「室町将軍」とは都に上り自分が政治を行う為の名目にしか過ぎずそれを利用しただけです。都の奉行所から役人まですべては信長の部下の仕事であり足利義昭とは何の関係もありませんでした。しかし利用できるものは徹底して利用するのが織田信長のやり方であり、彼は全国の大名に新将軍に挨拶する為に都に来る催促をした訳です。この要求を越前の朝倉義景が断った為に織田信長は越前まで攻め込みました。

一方で足利義昭がこの信長の行動を快く思う筈も無く彼は日本各地の有力大名に「織田信長を討て」との指令を出し続け、この将軍の号令によって完成したのが「第一次信長包囲網」です。足利義昭のこの行動は都を追われて将軍職を失った後も全く変わらず後には上杉謙信を中心とする「第二次信長包囲網」を完成させます。

この将軍の動きに完全に囲まれて窮地に至った織田信長が怒ったのは当然でありだからこそ彼は自分の体制を立て直す為の最初の手段として足利義昭を都から追放し、室町幕府を完全に終わらせる事をした訳です。ところが織田信長が独断で朝廷より指名された征夷大将軍を排除し、室町幕府を終焉させる事は朝廷から見れば確実に越権行為であり、朝廷と信長、特に当時の正親町天皇織田信長は激しく対立しました。

賢明な皆様はもうお解りでしょう。信長が御所の一部を壊して馬の品評会を開いたのも、それまでに無かった残忍な方法で大量の人を殺していったのも、自分が安土城の総見寺の「神体」となったのもすべてがこの正親町天皇に対する当てつけであり嫌がらせです。将軍を排除した後に露骨に政治に介入してきたのは正親町天皇であり、今度は織田信長は朝廷を既得権益の一部とみなして戦わざるを得なくなった訳です。

織田信長に冠位を与えて朝廷の意思に従わせようとする正親町天皇に対して信長は天皇の退位と歴の改定を要求し、この両者は正面から対立します。天皇陛下が政治に介入する権力を放棄されたのは平安時代の事ですが、この戦国時代の末期には再び権力を取り戻そうと試みていました。だからこそ新しい権力者である織田信長と激しく対立した訳です。

正親町天皇から織田信長に「征夷大将軍太政大臣か関白になってくれ」との勅命があり、それに対して織田信長が「お答えいたしかねる」と返答したのは「本能寺の変」の直前です。「本能寺の変」の裏側には朝廷という巨大権力が動いていた訳です。決して「本能寺の変」は明智光秀の単独犯行ではありませんが光秀を動かしたのは「武家」では無くて「朝廷」の力です。織田信長という改革者はその巨大な力によってその生涯を絶たれ業績を捻じ曲げられようとしていました。

あとがき

織田信長はそれまで続いた朝廷に代わって自分がその位置に上がろうとしていた」と言う類の話は全て噓であり完全な勘違いです。信長が排除しようとしたのは正親町天皇の政治への介入であり、戦国時代以前の様な状態に朝廷が戻れば確実に朝廷より自分が「征夷大将軍」の位を頂いて「織田幕府」を起こした事でしょう。仏教勢力に対しても信長とは激しく対立しましたが、織田信長がその仏教の宗派の信仰を禁止した事は一度も無く「信仰の自由」の姿勢を貫いています。信長が徹底して排除したのは仏教勢力の政治介入です。すでに信長は正親町天皇が退位された後に自分も権力者の座から降りる準備をしており「本能寺の変」の時には自分の家督をすべて長男である織田信忠に譲っていました。正親町天皇の在位中は自分も身を引けないと考えていただけです。信長が朝廷自体を廃する事など考えていた形跡は全くありません。

そういう意味では最後まで織田信長は「人」であり決して「鬼」ではありませんでした。

しかしこういう私の言葉は現代の歴史から織田信長を見て言える言葉であり、当時の朝廷から見たこの新しい支配者は自分自身を神と名乗り、朝廷からの冠位を拒否し、当時の天皇に退位と歴の改定を要求する「恐ろしい鬼」です。安土の街にはセミナリオと呼ばれるキリスト教の神学校が立ち並び、宣教師たちに対しても信長は「自分が布教を許可すれば朝廷の許可は無用だ」と宣言しており、絶対に朝廷にとっては許す事の出来ない存在でした。

さて、次回からいよいよ「明智光秀」の事も書いていくつもりです。織田信長を討つ人間にどうして「明智光秀」が選ばれたのでしょうか?     明智光秀羽柴秀吉と同じくその素性もはっきりしていない人間であるにも関わらず、信長に仕えてからの出世のスピードは秀吉を確実に上回っていました。細かな点で織田信長明智光秀が叱られた事はあってもそれは光秀に限った事では無く信長の日常で明智光秀自身が織田信長を恨みに思う筈も無く光秀は非常に優秀な信長の部下でした。織田信長が最も明智光秀を頼りにしていた事は明白で、他の織田家の重臣である柴田勝家は北陸に、前田利家は加賀に、羽柴秀吉でさえ長浜に領地を与えられていたのに対して明智光秀の領地は近江の坂本、丹波の亀山とすべて都の周りです。光秀が信長を不満に思う要素など一つもありません。ドラマでは徳川家康の接待役を光秀が命じられたのに途中で解任されたのを不満に思った様なストーリーが良く出てきますが、それこそが作り話でありなんの根拠も証拠もありません。

明智光秀が本能寺で信長を討った経緯は実は全く違う事柄からであり、「本能寺の変」の直前に織田家中で起こった出来事とそれまで光秀がしてきた織田信長に対しての仕事とに深く関係しています。次回のブログではそうした複数の要素を一つ一つ記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。