我が国の改革者

織田信長(一)

人から鬼へと変わった男

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前書き

織田信長の改革から「本能寺の変」で信長が最後を迎えるまでを一度のブログにまとめる事は私の能力では不可能です。織田信長の性格やその改革に向かう方向はその生涯を通じて全く変わりませんでしたが、確実に「ある時期」を境にしてその改革姿勢が大きく変わった事は事実です。確実に織田信長はその時期を境にして「人間から鬼」にその生き方を変えました。この信長が「鬼に変わった事」と彼の暗殺事件である「本能寺の変」は深く関係しています。明智光秀が突然謀反を起こし主君である信長を討った背景を考える時に、この織田信長の姿勢の変化やその事件の前後に何があったのかを記述する事は絶対に避けては通れない歴史であるにも関わらず殆どのテレビドラマや映画でもこうした真実には全く触れていません。それまで信長の忠実な部下であり羽柴秀吉以上に信長から信頼され出世してきた明智光秀が何故突然に謀反を起こしてまで織田信長を殺さなければならなかったのかを真剣に考える為には「人間織田信長」と「鬼に変わった織田信長」をまず比較する部分から記述しなければならないと私は考えています。

従って今回のブログではまずは「鬼に変わるまでの織田信長」の姿勢を記述して「鬼に変わった織田信長」と何が違うのかを比較してみたいと思います。宜しくお願い致します。

人間 織田信長の正義

まずは「信長公記」から若い頃の織田信長がどういう態度で治世をしていたのかがうかがわせるエピソードを一つご紹介します。この「信長公記」は当時の言葉で書かれており大変解りにくいので僭越ながら私が現代語に訳して注釈を入れて書かせて頂きます。

尾張の大屋という村に甚兵衛という侍が住んでいましたが、この甚兵衛の留守中に甚兵衛の友人であった佐介が甚兵衛の家に強盗に入りました。この時に甚兵衛の妻が佐介の刀の鞘を奪い取り守護に被害を訴えましたがこの裁判は「火起請」と呼ばれる真っ赤に焼いた鍬を素手で持って特定の場所まで運ぶ事で真偽を決める事になりました。しかし佐介はこれに失敗して鍬を落としてしまって本来なら有罪であるのに無罪にされようとして騒ぎになっていました。そこにたまたま鷹狩りの帰りに織田信長が通りかかりました。この事件の内容を聞いた信長は「すぐにもう一度鍬を真っ赤に焼き直せ」と命じられ「わしがこの鍬を持ってきちんと運んだら佐介を罰する」と言って真っ赤に焼けた鍬を素手で持ち上げて指定の場所まで運びました。周囲には肉の焼ける匂いが立ち煙が上がりましたが信長は決して鍬を離さずきちんと最後まで目的の場所に運んだそうです。その結果、佐介の有罪が確定しました。

どうでしょうか? これが人間 織田信長の正義です。裁判の方法にはきちんと自分も従い自分の身を犠牲にしてまで正面から裁判を受けています。この信長の姿勢には全く残酷な独裁者としての面影はありません。その他にも尾張時代の織田信長は自分を一度は裏切って戦った柴田勝家や弟の織田信行に対しても全く罪を与えずに許しており、自分の義父である斎藤道三を殺した斎藤義龍の息子である斎藤龍興稲葉山城を攻め落とした際に下した判断ですら斎藤龍興の国外追放であり極めて慈悲深く忠節を重んじる侍の鏡とも言える存在でした。ところがそういう姿勢の織田信長にとんでもない災難が待ち受けていました。

第一次信長包囲網

すべての事の発端は朝倉義景領であった越前を織田信長が攻めている時に信長の妹婿である浅井長政の裏切りから始まりました。この為に信長軍は敗走した訳ですが、この信長軍の惨敗をきっかけとして西からは毛利軍が、南から石山本願寺が、北から浅井、朝倉勢が、都では将軍足利義昭が兵を上げて東から武田信玄が攻めてくるという全く逃げ場の無い絶体絶命の状態に一気に織田信長は追い込まれました。この囲まれた状況の中で信長は五年以上殆ど敗戦ばかりの日々を過ごします。比叡山延暦寺を焼いた信長は岐阜城のすぐ近くまで迫っていた武田信玄の急死によってようやくその体制を立て直しにかかります。ここからの織田信長の行為は全くそれまでの温和な政策とは違ったものに変わりました。

鬼に変わった織田信長

まず織田信長は都で挙兵した 十五代将軍足利義昭を京より追放して十五代続いた室町幕府を完全に終焉させると姉川の戦いで浅井、朝倉の連合軍を破りそのまま浅井長政の領土である近江に攻め込みます。ここで初めて信長は「浅井の家につながるものは女子供に至るまで皆殺しにせよ」との命令を出しそれを実行しました。

それが終わるとすぐに毛利勢に味方をして摂津伊丹城で挙兵した荒木村重を攻め、残された村重の婦女子など百二十名余りを尼崎の七本松で磔にして殺し、捕らえた家臣五百名余りを火炙りにして殺し、荒木一族の四十名ほどを京に送って六条河原で車裂きの刑を用いて極めて残酷に殺しています。この同じ時期に同じく毛利勢の味方をしていた三木城を羽柴秀吉が落とす際に二の丸まで攻め込んでおきながら攻めるのを一旦やめて城主である別所長春が腹を切れば城内のすべての人間を助けると約束し実行した事とこの信長のやり方は全く対照的であり完全なサディストとも呼べる仕打ちでした。

そしてその翌年1574年(天正2年)の正月に織田信長に新年の挨拶をする為に安土城に参上した織田家の重臣たちは度肝を抜かれます。織田信長の正面には浅井久政・長政父子と朝倉義景の三つのドクロが金箔を貼られて並べられて置かれており信長はそのドクロを酒の肴として扱い酒を飲んだという話です。

この信長包囲網以降の信長は完全に別人でありまさしく鬼です。自分が安土城を留守にしている間に桑実寺の寺参りに城内の女性が出かけているのを帰城して知ると僧侶もろとも全員を寺に火をかけて殺しており、こんな性格の信長は包囲網以前とは全く違います。安土城には総見寺という寺が作られましたがこの寺の本尊は織田信長自身です。彼は城下の人々に賽銭百文を持ってくるように命じ自分を拝ませて賽銭を直接受け取ると賽銭箱に放り投げていきました。この事は当時日本にキリスト教の宣教師として来ていたルイス・フロイスが本国に「信長は神の様に尊敬されることを願い、安土の寺院には神体は無く、信長はみずからを神体と考え、世界には他の主は無く、地上において崇拝されることを望んでいる」と驚きを持って書き送っています。実際にその通りでありそのころの信長は春日大社の神の使いとされている鹿を弓で射殺し、天皇の宝物蔵である東大寺正倉院蘭奢待と呼ばれている名香を切り取り安土城に持ち帰っており朝廷の権威も神仏の加護も全く信じない鬼としてこの日本に君臨している状態でした。

あとがき

この織田信長の変化を何が変わったのか解らない人は一人もいないと私は思います。それほど強烈に浅井長政の裏切り後の織田信長は激変しました。

しかし同時にこの時期の織田信長の戦略は日本のその後の戦に革命的な変革をもたらした事も事実です。武田信玄の騎馬軍団に苦しめられた信長は信玄の死後甲斐の国主になっていた武田勝頼と闘い、「長篠の戦」で鉄砲を三段構えにして馬防柵の内側から鉄砲を打ち込むという方法で武田の騎馬軍団を壊滅しました。この戦法が鉄砲の発祥地であるヨーロッパで取られたのはナポレオンが最初であり日本のほうが100年以上早かった事が解ります。また船を用いて石山本願寺に兵糧を持ち込む毛利軍に対して、世界で初めて大砲を積んだ鉄製の軍艦を造ってこれを撃退しています。

日本国内の経済に関してもそれまで「ビタ銭」と呼ばれた偽金が横行していた貨幣価値を「永楽通宝」を基軸通貨にして統一し大いに貢献しました。

しかしこうした織田信長のすべての既得権益を敵に回して戦う姿勢が後の「本能寺の変」につながっていく訳です。織田信長という改革者は最初は穏やかに改革をしていた訳ですが、この急変して鬼となった後の政策はなりふり構わず完全に独裁的でありそれまでの既得権益が恐怖した事は確実です。次回のブログはそうした鬼に変わった信長と既得権益との関係、そして出来れば「本能寺の変直前」に何があったのかまで書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。