我が国の改革者

聖徳太子 

隠された十字架

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「改革者のブログ」についての前書き

日本の歴史上の改革者である「聖徳太子」「織田信長」「坂本龍馬」について個別にブログを書くと最初に私は書いたにも関わらずこれまで全く手を付けていませんでした。

その理由は誰から書こうかと迷っていた事もありますが最大の要因はこの3人ともその生涯や改革そのものが謎だらけであり3人とも「真実はわざと誰かが歴史から消している」としか思えない部分が多々あり「現在と歴史的に近い人間のほうがその生涯が正確に解る」という歴史の常識が全く通用しない特徴を全員が持っています。こんな事は普通はあり得ない話ですが結局は「改革者の歴史はその当時の人間やその後の人間にとって都合のいいように捻じ曲げられて真実を教えない」という感情から来ているとしか思えません。聖徳太子よりも当時の天皇であった推古帝や有力豪族であった蘇我氏物部氏の生涯のほうが確実に解りやすく、織田信長よりも豊臣秀吉徳川家康坂本龍馬よりも西郷隆盛山内容堂のほうが数段良く解るという奇妙な現実に実は私自身も戸惑っています。

そうであるのなら逆に難しい筈である古いほうから書き始めようと思って「聖徳太子」を最初に選んでみました。この三者には不思議な共通点があり、その共通点だけを故意に隠そうとしている部分があります。そのヒントが今回の題名である「隠された十字架」であり私はそういう視点から「日本の改革者の歴史」を記述していきたいと考えています。

正直に言えば私には皆様に解りやすいブログを書ける自信は全くありません。しかし世間一般に広がっているような「当たり前の歴史」を私が書いてもなんの意味も無いと考えています。物事の経過は正面から見るよりも裏側や側面から見たほうが真実が解る部分があり特にそれまでの制度をひっくり返した改革者の「正面の歴史」は故意に着色されゆがめられて後世に伝えられています。私は出来るだけそうした「着色された歴史」から離れて真実を伝えてみたいと考えております。そうした視点からこの「改革者の歴史」をブログにまとめていく気でおりますのでご理解のほど宜しくお願い致します。

法隆寺の救世観音像の謎

奈良県の「法隆寺」には「救世観音像」が納められています。この「救世観音像」は聖徳太子の実物大の像であると言われていますがその事を知っているかたも少ないと思います。というのはこの仏像は長い間誰も見る事の出来ない「秘仏」として扱われており僧侶でさえ「封印を解いて拝めば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊する」との迷信が信じられていて739年(天平11年)にこの銅像が安置されて以降1884年(明治17年)まで1000年以上全く人目に触れる事はありませんでした。この仏像を公開したのは東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサであり、彼は調査の為に無理を言って僧侶からこの仏像を研究する許可を得ました。この仏像はそういう意味で日本の他の仏像とは全く違う存在です。

彼のこの「救世観音像」の研究の結果、驚くべき事がいくつか解ってきました。この仏像の完成度の高さは他の日本の仏像と比較にならないほど高くレオナルドダヴィンチの作品に匹敵するものであるという事が一つです。もう一つはこの仏像はその高い完成度を持っているにも関わらず「後光」が頭の後ろから釘で打ち付けられているという矛盾点です。普通は日本で仏像を作る時には釘など一本も使われません。「仏像の後光」は仏像の後ろに別に造られるのが普通ですがこの仏像だけは後頭部に太い釘で後光が打ち付けられています。人間なら確実に死んでしまう部分に後光を釘で打ち付けた仏像など普通はあり得ないものであり、その意図はどう考えても「呪いを封じる為」としか考えられないという事実です。この「法隆寺」の「救世観音像」の設置されている「夢殿」に行く通路自体がわざと人が近づく事が困難なように邪魔になる部分に柱が設置されていたり、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたという話もあり1000年以上白布で覆われて全く人目に触れなかったこの仏像は謎だらけの状態です。一般的に聖徳太子が人に恨まれるような事を行った事実は何もなく何の「呪いを封じる」のかさえ全く解りません。この現実に対して哲学者・梅原猛氏は1972年(昭和47年)に大胆な仮説を発表しました。この説は同年に新潮社から「隠された十字架」として出版されこの学説が広まり出すと日本政府は1万円札の肖像画を「聖徳太子」から「福沢諭吉」へと代え、突然「聖徳太子は実在しない」という説が登場しました。すべてはこの学説から後の出来事です。これを単なる偶然とみるのは確実に無理があると思います。

私が前書きで「物事を裏側や側面から見る」と書いたのはこの事であり、このブログも梅原猛氏の学説に従って書いていきます。異論のあるかたは大いに歓迎です。この学説以外で「救世観音像」の謎が少しでも解けるのなら是非とも教えてください。私には全く解らない事ですので真摯に耳を傾けます。

聖徳太子キリスト教

この学説によれば聖徳太子のいた飛鳥時代仏教とは別にキリスト教も確実に日本に入ってきていたという事で仏教を日本の宗教に決めた聖徳太子仏教よりもキリスト教を重んじていた節が多分にあるとの事です。「聖徳太子」という名前自体が彼の死後に付けられたものであり彼の生きていた時代には彼は「厩戸(うまやど)」、または「厩戸王」と呼ばれていました。この名前の由来は彼が馬子屋で生まれた事から来ているとの説が有力です。これはイエスキリストの誕生秘話と全く同じです。

次に現在でも日本最大の仏殿である東大寺の年始の行事は「お水取り」と呼ばれる儀式から始まり東大寺には二月堂や三月堂が存在します。仏教にこんな儀式はどこにも無く極めてキリスト教に近い儀式です。さらに聖徳太子の子である山背大兄王蘇我入鹿に殺されましたが入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一旦一族郎党を連れ生駒に逃れましたが「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない」と言って入鹿の軍のところに戻って自害します。こんな発想は仏教には全く無く山背大兄王が自害した場所こそが現在の法隆寺です。この事実をキリスト教を外して考えられる人がおられるのなら是非とも教えてください。

封印されたキリスト教

聖徳太子蘇我氏の血筋であるにも関わらず彼の一族は蘇我入鹿によって滅ぼされ、その蘇我入鹿も西暦646年の大化の改新中大兄皇子中臣鎌足に殺され蘇我氏は滅亡しました。中大兄皇子は後の天智天皇であり中臣鎌足は後の藤原鎌足です。強大な権力によって日本に入ってきていたキリスト教は完全に封印されてその後日本は仏教国としての歴史を歩き始めます。江戸時代の徳川幕府キリスト教禁止令よりもはるかに強い力で日本の権力は飛鳥時代キリスト教を排除したと考えるのは私は妥当だと思います。

しかし一旦国内に入った宗教勢力を完全に排除する事は出来ない為に東大寺の宗教行事にはキリスト教由来のものが根強く残ってしまった訳です。その後桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京に遷都しましたがその理由は天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図であったとの説が一般的です。何故都を変えてまで天智天皇系の都を造る必要があったのでしょうか?  しかも遷都した「長岡京」をたった9年でまた遷都して「平安京」に移っています。この「平安京」は現在の京都でありその後明治維新まで天皇陛下が都を移す事はありませんでした。やはり私は聖徳太子やその子孫の生涯、救世観音像の謎、天智天皇の後の目まぐるしい遷都の理由、その背後には大陸から日本に入ってきたキリスト教の存在があったとしか考えられません。

あとがき

聖徳太子」は後の改革者である「織田信長」や「坂本龍馬」のような悲惨な運命を迎えていないとは決して言えない事が解って頂けたでしょうか?  改革者の歴史は捻じ曲げれられて「聖徳太子飛鳥時代に冠位十二階や憲法十七条を制定し日本を独立国家にした偉い人」などと巷に流れている情報が権力者によってその生涯の良いところだけをつまみ食いしただけのものであり、法隆寺の救世観音像の謎などは全く報道されません。

しかしそれまでにあった既存の社会体制を壊して新しいシステムを作り上げる事は確実に物理的にも「大量の血を流す」作業であり、新しい世の中が出来ると同時にその改革者は闇の中に放り込まれてその実績は新しい権力者に都合のいいように書き直されます。既得権益の持つ力は確実に改革者よりも大きくどんな手を使ってでも改革者の業績を踏み潰します。「現在は民主主義の平和な世の中だから大丈夫だ」と考えるのは妄想であり平和ボケでしかありません。現在の日本に大きな改革が必要である事は確かですが、その大改革で被害を受ける日本人や諸外国が多くある事を絶対に忘れては駄目だと私は思います。それでも我々は無血の大改革に取り組むべきであり、その為にはこうした歴史の真実を知って歴史に学んで前に進むことが大切だと思います。

我々には未来は全く解りませんが過去なら学んで知って行動する事は可能です。ともに頑張りましょう。