日本の改革者

日本の改革者たちの政治的立ち位置

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前書き

前回のコミュニティの趣旨で私はこれまでの保守系の立場を捨てて白紙の状態でコミュニティを立ち上げたと書きましたが、これは歴史からも学んだ事でした。

前回に書いたようにこれまで日本の歴史の中で3度の大改革がありましたがその当事者たちの政治的な立ち位置は右派なのか左派なのか私には全く解らない状態なのが事実です。今回のブログでは彼ら3人の足跡を辿って皆様に彼らがいったい政治的にはどういう立ち位置であったのか考えて頂くものにしたいと考えています。以前に所属していたコミュニティで「保守とは何か?」と問われたメンバーが「保守とは古き日本の良きものを大切に守る事」と答えていた事もありますし、保守コミュニティの趣旨に現在でもそれに似たような事を書いているコミュニティもあります。しかし現実には歴史を動かし日本を守った改革者はすべて、ある意味ではそれまでの日本の風習、文化、生き方を壊した破壊者たちです。この事実をもってして彼らを売国奴と呼べるでしょうか?

少なくともその時代当時には彼らはすべて多くの人から売国奴だと思われていたと私は思います。大きな改革を断行するためにはそれまでにあった既成観念を良いものも悪いものもまとめてひっくり返す事が必要で既存のシステムの中で暮らしていた人々から見れば改革を断行するものは大悪人です。では日本史上で彼らが何を捨てて新しい何を取り入れていったのか個別に見ていきたいと思います。宜しくお願い致します。

聖徳太子

実は記述するのが一番難しいのがこの「聖徳太子」です。時代は古くなれば古いほど現在の価値観念から遠く離れてしまいますし記述された文献も少なくなってしまうのが現実です。時代が古いほど現在の我々から見て感情の移入も出来なくなってしまう事も現実です。しかし歴史を皆様に伝えるブログで私の推察での聖徳太子像を記述することは控えなければならないと思います。したがってこのコーナーでは聖徳太子が生きた時代とその時代背景、当時の日本が抱えていた国内と国外の諸問題を出来るだけ簡潔で解りやすく述べて何故この時代に改革が必要であったのかを描きたいと思います。

聖徳太子飛鳥時代の西暦574年、用明天皇の第二子として、この世に生を受けました。厩戸皇子(うまやどのおうじ)と呼ばれていましたが、幼名は厩戸豊聡耳皇子(うまやどとよとみみおうじ)といいます。この時代にまだ和暦はありません。日本史に和暦が登場するのは太子の死後、大化の改新の後の「大化」が最初です。太子が生まれた時代の日本は決して独立国とは言えず中華王朝である隋の朝貢国でした。日本国内では豪族同士が争っており、特に有力者であった物部氏蘇我氏は激しい争いを繰り返していました。そこに日本初の女性天皇である推古天皇が西暦592年に即位しました。

賢明な皆様にはお解りだと思います。当時の状況は天皇の存亡の危機があったのです。聖徳太子憲法十七条を制定したのも冠位十二階を定めたのもこの危機を救う為には絶対に必要な事であった訳です。さらに太子は誕生してはすぐに消えて違う王朝が出来上がる中華王朝に見切りをつけ隋と闘っていた高句麗と同盟を結び、当時の隋の皇帝である煬帝小野妹子を遣隋使に遣わせて日本の独立国家としての地位を勝ち取ります。煬帝は皇帝と天皇が同一の地位である事を二度の小野妹子の派遣によって認めざるを得なくなります。その後隋が倒れて唐が成立した後に日本が遣唐使を途中でやめてしまう事が出来たのは唐も日本を独立国として認めていたからです。さて、ここまでは聖徳太子の立場は完全に保守派ですよね。

問題なのは聖徳太子摂政という立場になり政治を行えたのは聖徳太子蘇我氏の血縁であり太子を擁立したのも蘇我氏であるという点です。憲法十七条も冠位十二階も蘇我氏の勢力を大きくするものであり国内を鎮めたのも蘇我氏の為であった可能性が非常に高い事です。勿論当時には右派、左派などという言葉はありませんでしたが聖徳太子の業績によって蘇我氏の勢力は実際には天皇以上のものになったというのが事実です。「大化の改新」によって蘇我入鹿が暗殺され蘇我氏が滅ぼされなければ現在の天皇陛下の存在があったのかどうかは極めて疑問です。そういう意味では聖徳太子の業績は今でいう左派的なものであったのは確実です。

織田信長

織田信長の業績は当時仏教勢力が支配して仏教国になりかけていた日本を根元から叩き壊して百年以上続いた戦国時代を「天下布武」という武力で天下を取るという明確なスローガンを掲げてもう少しで日本を統一するという部分にまで高めたところにあります。

足利義輝が殺された後の室町幕府の将軍の座を義輝の弟の足利義昭を擁立して幕府を立て直し、応仁の乱で乱れた京の都の治安を完全に回復させて困窮していた皇族に惜しげも無く金銀を渡して当時仏教勢力によって、特に一揆と呼ばれた一般庶民の暴動を抑えて根元から新しい日本を作り直したのは見事なまでの保守勢力です。

しかし他方で織田信長は将軍から副将軍の地位を何度も提示されたのに完全にこれを拒み続け、堪り兼ねた将軍が兵を上げると将軍足利義昭を都から追放して室町幕府を完全に終わらせて京都御所の裏鬼門に建てられた比叡山延暦寺を僧侶もろとも完全に灰にして当時の天皇であった正親町天皇に退位を求め、皇室には歴の改正を求め、正親町天皇から太政大臣か関白か征夷大将軍になってくれと頼まれてもこれを一蹴するなど完全に極左とも思える一面を見せています。

織田信長が朝廷から恐れられていたことは確実で彼もまた本能寺の変で暗殺されなければ現在の皇室があるかどうかも不明です。しかしその織田信長の意思は豊臣秀吉へと受け継がれ天下を統一した秀吉は「太閤検地」と「刀狩り」という信長が実行できなかった業績を実現し、その意思をまた徳川家康が次いで江戸幕府を開き日本は250年以上平和な時代を迎える事が出来た訳です。

改革者が殺されても残った者がその意思を受け継いでより浄化された改革を断行していく、そうする事で日本の長い歴史は続いてきた訳です。決して日本という国家の歴史が長いのは偶然でも島国であるからでも無く国家が窮地に陥った時に英雄が突如現れて新しい国づくりを行う事で成り立ってきたわけです。それは次の坂本龍馬の姿に見事に反映されています。

坂本龍馬

明治維新に至る幕末には多くの志士たちが登場し、活躍しました。西郷隆盛、木戸寛治、高杉晋作吉田松陰など現在から見るとヒーローのたまり場になった時代です。

しかしどう考えてもその枠からはみ出してしまうヒーローがいます。それが坂本龍馬です。他の志士たちが自分の立ち位置がしっかりとしているのに龍馬は実にあいまいです。

これまでの二人の改革者と比べても龍馬の地位は比較にならないほど低く、その生涯で直接政治に関れる身分になった事など一度もありません。暗殺された時点でも坂本龍馬の身分は土佐の脱藩浪士であり彼自身に全く出世欲が無かった事は確実だと思います。坂本龍馬の存在も彼が死んで10年以上経ってから徐々に解ってきた事で坂本龍馬の存在も実績もこの時代の誰とも似ていません。

坂本龍馬が江戸に剣術修行に行っている時期に大事件が起こります。1853年7月8日に浦賀沖に来航したアメリカ合衆国マシュー・ペリー率いるアメリカ海軍が突如日本の徳川幕府に対して開国を求めました。いわゆる「黒船到来」です。

威圧的に開国を求めてくるアメリカに対して幕府は幕府だけでは答えを出せず日本中の大名に意見を求めます。たちまち浦賀に黒船が来た事が日本中に伝わり、「アメリカの要求を呑んで開国すべきだ」という「開国派」と日本に上陸してきた外国人を一人残らず斬り殺すべきだという「攘夷派」に真っ二つに分かれます。

この時点で龍馬が熱心な攘夷派であった事は間違いがありません。土佐の攘夷派の集団であった「土佐勤王党」には彼の名前も血判もしっかり残っています。ところがしばらくすると龍馬は勤王党も土佐藩も捨てて脱藩してしまいます。その後の龍馬は日本中を駆け巡り様々な人に出会います。特に江戸で会った幕臣である勝海舟に深く影響を受けて神戸で蒸気船の操縦技術を学びました。「攘夷派」の志士が異国の技術を学ぶなどは当時は異例の事であり彼と彼の仲間は蒸気船を当時保有していた薩摩藩に雇われます。

この辺りまでは彼は保守系の人間であると言えると思います。ところがその後すぐに彼は幕府に歯向かい朝敵とされていた長州藩に出かけて憎みあっていた薩摩と長州とを「薩長同盟」を結ばせて幕府に対抗し幕府軍が長州に攻め込んだ時には戦に参加して幕府軍を下関で破っています。

では薩摩と長州を味方につけて彼が徳川幕府を倒したかったのかというとそうでもありません。自分の生まれ故郷である土佐藩を薩摩と長州の同盟に加えて武力革命を抑える一方で彼は土佐藩の大名であった山内容堂に15代将軍徳川慶喜に対して「大政奉還の建白書」を書かせて無血で徳川幕府の世を終わらせました。

坂本龍馬の立ち位置は極めてあいまいです。大政奉還を実現させるまでの龍馬は徳川幕府から見れば犯罪者としか見えないほどの左派であり、薩摩、長州から見れば日本の将 来を憂いともに幕府と闘う右派だった訳です。しかし彼が大政奉還を実現したとたんに彼はすべての侍を敵に回しました。薩摩、長州が実行したかったのは徳川幕府を倒す戦であり、大政奉還が決定した瞬間に戦は無くなり、またすべての侍は職を失った訳です。大政奉還が実現した事で薩摩も長州も龍馬を生かしておいた事を確実に後悔したでしょう。近江屋で坂本龍馬が暗殺された犯人を見つける事が困難なのは恨みを持つ人間が多すぎて特定出来ない事と犯人を捜して処罰する気も幕府には無いからです。

この坂本龍馬の立ち位置を皆様はどう考えられるでしょうか?

あとがき

私は日本が好きでこの国を大切にしたい、トランプがアメリカファーストを言うのなら私はジャパンファーストです。理由は私が日本人だからです。

日本を大改革してきた偉人たちがある部分では左派であり、ある部分では右派である事に気づいていただけましたでしょうか?  だから今後の私は「日本の将来を考える」という共通の目的が持てればどんな人間とでも手を組むつもりです。共産党民進党の支持者がすべて売国奴であるとの考えも捨てました。私の力など到底今回のブログで取り上げた3人とは比べ物にならないほど弱く小さいものである事は充分に承知しているつもりです。しかし先人の知恵を学ぶことは決して無駄では無いとも思っています。

皆様、宜しくお願い致します。