我が国の改革者

織田信長(三)

本能寺の変に向けて

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前書き

先日もテレビ番組でこの織田信長の暗殺事件である「本能寺の変」に秀吉が関係していたという報道があり、こうしたテレビ番組の内容を信じてしまう人が増えるんだろうと考えると少し落ち込んでしまいました。しかしそんな事は決して無いと私は断言出来ます。もし「本能寺の変」で織田信長が暗殺されれば秀吉の天下になるのであれば私は秀吉が明智光秀に加担していた可能性もあると思います。ところが決してそうはならない訳です。その後秀吉が天下人になったのは事実ですがそれはこの「本能寺の変」以降の秀吉の決死の働きといくつかの偶然が重なった結果であり「本能寺の変」の後にすぐに秀吉の天下になった訳では決してありません。現実に「本能寺の変」によって一番苦境に立たされたのは秀吉自身であり彼はそれを乗り越えようと精一杯努力しただけです。

改革者の業績は常に歪められ真実を後世に伝えない様に上塗りされていきます。今回のブログでは私はそうして上塗りされた部分を取り除いて出来るだけ歪められた事実の真相を解明して何故明智光秀織田信長を討たなければならなかったのかまで記述したいと思います。宜しくお願い致します。

本能寺の変」直前の織田家の内部

前回のブログの最後のほうでも少し触れましたが織田信長は暗殺される前にすでに自分がいなくなった後の織田家の将来を考えていました。織田信長は子供に恵まれていましたが信長自身が信長の父の死後に織田家の跡目争いに大変苦労し、結果として自分の弟である織田信行を自分自身の手で殺さなければ収集が付かない事態にまでなった為に自分の死後にはそうした「お家騒動」が起きないようにきちんと手を打っていました。

自分が元気なうちからすべての自分の家督を長男の織田信忠に譲り、次男織田信雄北畠家に三男の織田信孝は神戸家に養子に出しており、家督をめぐって織田家中がもめる事を生前から防いでいた訳です。織田信長自身も自分の過激な行動が世間の恨みを買っている事を充分に把握しており、自分がいきなり暗殺される事も想定していた訳です。

織田信長にもしもの事があれば、その後継者は織田信忠になる事は織田家中では常識であり織田家以外の人間が決して介入出来ない様に信長は最初から考えていました。

ところが「本能寺の変」の直後に織田信長にとって考えなかった不測の事態が起こりました。明智光秀が本能寺で織田信長を討ちとった事を二条御所にいた織田信忠が知ると彼は直ちに明智光秀を討ち取る為に明智軍と戦い、敗れて逆に明智光秀に討ち取られてしまった訳です。これは戦えば確実にそうなってしまう訳であり1万人以上いる明智軍勢に対して「本能寺の変」直後殆ど兵力を持たず戦の準備もしていなかった織田信忠が勝てる筈が無く彼は一旦身を引いて軍勢を立て直した後に明智光秀を討ち取る戦を仕掛けるべきだったのは確実です。明智光秀が謀反を起こして討ち取りたかったのは織田信長だけであり決して織田信忠も同時に討ち取る事を考えていた訳では無く織田信忠は逃げようと思えば確実に逃げ切れたものをその場に留まって戦った為に信長と一緒に討ち取られてしまった訳です。この行為が後の織田家の跡目争いの元になってしまった訳で織田信忠が逃げて生きていれば秀吉が後に天下を掌握する事などは絶対に出来ません。

こういう歴史の事件の真相にはテレビもマスコミも殆ど触れていません。短絡的に後の天下人になった秀吉と光秀が内応していたと考えるのは確実に歴史を歪めてしまいます。決して惑わされては駄目だと私は思います。

乙御前の茶釜

これは「本能寺の変」よりも十年ほど前になりますが羽柴秀吉織田信長から「茶の湯」を開く事を許可され、その証として信長秘蔵の茶釜である「乙御前の茶釜」をもらい受けました。「オトゴゼの茶釜」と呼びます。これが後の「本能寺の変」の後の秀吉の地位に大きく関係してきます。

というのはこの時に秀吉が信長から貰ったものは茶釜だけでは無く信長の四男である「お次丸」も羽柴家の跡取りとして一緒に貰った事です。この「お次丸」は信長の子供の中でも飛び切りの美男子だったと言われています。羽柴秀吉に子供が無く、したがって跡継ぎに不安がある事は織田信長も良く解っていました。羽柴秀吉明智光秀に次ぐ織田軍勢の出世頭であり織田信長も秀吉の力を必要としていたからこそ織田家の重臣にしか許されていなかった「茶の湯」を開く事も許可した訳です。しかし織田信長は同時に秀吉のこの力を警戒もしてもいました。そうした状況の中で自分の血のつながりのある四男「お次丸」を羽柴家の跡取りとして養子に出す事で秀吉が信長に反逆する可能性を完全に消し去った訳です。これは秀吉も全く同じ理屈です。織田信長から養子を貰って羽柴家の跡継ぎにする事は信長から人質を取るのと同じ事です。この養子が自分の家中にいる限り決して信長は秀吉を粗末に扱えません。

つまりこの「養子縁組」は信長にも秀吉にも得であり双方がこれで安心して今後の関係が築けるものであり、この時の秀吉がまさかこの縁組が織田信長の死後に役に立つとは考えていなかった事は明白でしょう。とにかくこの茶釜と養子縁組によって羽柴秀吉は確実に織田家の重臣の一人になれた訳です。

明智光秀織田信長を討つ動機について

さて、話を元に戻しましょう。明智光秀織田信長に決して恨みを持っていた訳でも無く秀吉や家康と内応していたのでも無いのであれば何故明智光秀織田信長を討ち取らなければならないと思ってそれを実行したのでしょうか。

これが人間の心理の複雑な部分でありどうしても感情で動いてしまう人間の性です。この明智光秀と同じ様な心境を実は現在の私も持っています。それは「もうこの人には付いていけない」という人間の持つ感情です。

この「本能寺の変」直前に織田家中ではいくつかの事件が起きました。信長に幼い時から仕えていた重臣である林通勝が突然解雇され大阪石山本願寺攻めの総大将であった佐久間信盛がその本願寺との交戦中の怠慢をいきなり咎められて高野山に追放された後に切腹させられました。こういうリストラは膨張し続けている織田家中ではまず普通は絶対に起こらない異常な人事です。さらに信長は明智光秀が長年苦労して取り繕っていた四国の長曾我部氏との同盟を一方的に解消し四国攻めの準備をしていました。信長と朝廷との仲が悪かった事は前回のブログで書きましたが、この関係をいつも取り繕ってきたのも都近くに領地を与えられた明智光秀です。そうした中で信長は明智光秀に対して秀吉の中国攻めに参加するように命令し、これまでの領土であった丹波も坂本も取り上げて中国地方明智光秀が攻め取った領土を新しい領地として与えると命じた訳です。

明智光秀が「林通勝佐久間信盛の次は俺の番か」と考えてもなんの不思議も無く、いつも朝廷から苦言を言われる光秀が「討たれる前に討ってしまう」事を考えるのは自然な事です。

本能寺の変」の時の織田家の周りの状況は柴田勝家は北陸で上杉勢と交戦中、羽柴秀吉は中国で毛利勢と交戦中、織田信長と同盟関係にあった徳川家康は大阪の堺に遊びに来ていて都の周りには光秀の軍勢しかいない空白状態が出来ていました。そうした中で織田信長は四条本能寺に殆ど軍勢がいない状況で宿泊していた訳であり明智光秀にとってこれほどの好機は無かった訳です。この「本能寺の変」にはこれらの要素がすべて含まれています。こういう事をすべて無視して光秀と秀吉の内応があったとテレビで報道していた訳で私は非常に疑問を感じました。

もし明智光秀が綿密な作戦を立てて「本能寺の変」を仕掛けたのであれば、少なくとも秀吉などよりもその後の状況を考えて都の周りの有力武将を確実に自分の味方に付けている筈です。主君の信長を討った事で織田家中の有力大名と戦になるのは必然でその戦に備えてそうした自分の味方になる武将を事前に周りに付けておかないと確実に自分が殺されます。しかし「本能寺の変」の後に光秀に味方した武将など殆どいません。明智光秀の義理の息子である細川忠興(妻は光秀の娘である細川ガラシャ)ですら「本能寺の変」の後には全く光秀の味方をせずに唯一光秀に応じると返答をした大和の筒井順慶も出陣しただけで軍勢を京と大阪の間にある洞ヶ峠で完全に止めて天王山で光秀と秀吉との戦いを見て秀吉が優勢だと解ると簡単に秀吉側に寝返りました。

こうした事から考えても明智光秀に「本能寺の変」で内応した武将など誰もいない事は明白で突発的に明智光秀が本能寺の信長を討った事が良く解ります。この結果明智光秀本能寺の変から11日後に山科の小栗栖で絶命してその生涯を終えました。光秀のこの「鬼退治」は結局誰からも支持されなかった訳です。

あとがき

テレビでは秀吉と光秀が通じていた理由として俗に「中国大返し」と呼ばれる秀吉軍が信長の死後から10日ほどで200キロに及ぶ道を大軍勢のまま帰ってきた事を「光秀と秀吉が内応していた証拠」として述べていましたが、これは秀吉の巧妙な時間を使ったトリックであり、この番組は400年以上経ってもまだ秀吉のトリックに騙されているのかと私は呆れました。

この「中国大返し」も事実でその距離とスピードが驚異的なのも事実ですが一番大切な「秀吉の戦のやり方」を理解できていないとこの「時間を使ったトリックの謎」は絶対に解けない為に「秀吉と光秀が本能寺の変で内応していた」というとんでもない結論に持っていかざるを得なくなります。そんな可能性は限りなくゼロに近く「本能寺の変」によって一番窮地に追い込まれたのは確実に秀吉です。この秀吉の「天才的な性格」を考えない限り決して真実には迫れません。後に関白太政大臣となり太閤にまで上り詰め、朝廷から「正一位」という天皇陛下の次の位まで勝ち取った世界史にもこれほどの出世を遂げた人間は他に一人も見つからない豊臣秀吉という人間は織田信長とは全く別の意味で飛び抜けた存在でありこの「天才的な性格」だけで彼が人臣の極限まで上り詰めた歴史の事実は動かしがたい真実です。

次回のブログではもう一度「本能寺の変」の時にまで戻って、本能寺の変の時の信長が見せた意外な一面と何故秀吉がこうした「中国大返し」を平然と行い、明智光秀を破りその後実質上織田信長の後継者になれたのかを出来るだけ解りやすく謎解きをしてみたいと考えています。宜しくお願い致します。

 

 

これからの日本と世界

報道に気を付けよう

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前書き

昨日北朝鮮金正恩の母違いの兄である金正男が暗殺されました。先日の北朝鮮日本海へのミサイル発射などももっと大々的に報道するべきなのに、この金正男の暗殺も特番が組まれる訳でも無くテレビや新聞では断片的な報道しかされていません。

こうした背景を考えて自分なりにこの「奇妙なマスコミ報道」を分析する事は私は重要だと思います。前にもブログで申し上げた様に私は韓国や北朝鮮にはそれほど興味が無く現在でも全く同じです。しかし現在の韓国の内政上の揉め事や北朝鮮の日本への度重なる挑発の後ろに中華人民共和国がいるとすればこれは無視できません。GDPがわずか数千億円の小国である北朝鮮が何度も核開発を試み日本海に向かってミサイルを撃ち続けられる現実は確実に北朝鮮経済と矛盾します。日本の在特会の皆様はこれを「日本国内のパチンコマネーによるものだ」と発言してパチンコ業界を糾弾しておられるのは非常に良い事だと私も思います。しかし日本国内のパチンコを全廃できたとしても北朝鮮の核開発やミサイル発射が無くなるとは私にはとても思えないんです。あの国家の核開発の後ろには「もっと巨大な力」があり、それを無視したままでパチンコだけ全廃しても期待外れに終わる確率のほうが高いと私は思います。「韓国」や「北朝鮮」などはもうそんなに寿命がある国家とはとても思えませんし、彼らが何を言おうが何をしようが「日本人は無視する」事こそが一番彼らにとってのダメージになると私は考えていますが、その背後に「ロシア」や「中国」がいるのならこれは決して無視できません。「韓国」や「北朝鮮」の行動に直接怒りをぶつける事は「木を見て森を見ていない」事になりその木から一歩離れて森を見て現実的な対応を考えるべきだと私は思います。今回のブログは「韓国」「北朝鮮」両方に入り込んでる事は確実だと考えられる中国について述べてみたいと思います。

宜しくお願い致します。

韓国の場合

韓国の朴槿恵大統領はアメリカの度重なる要求に耐えられず昨年韓国国内にTHAADミサイルシステムの導入を決定しました。この直後から中国と韓国の外交関係は冷え込み朴槿恵大統領の私的な友人との関係や、その内容が与党議員にも飛び火してもう確実に退陣に追い込まれそうな国家世論になっています。この朴槿恵の一連のスキャンダルの裏に中国共産党が暗躍していると考えるのは私の思い過ごしでしょうか?

しかしこの一連の事件で朴槿恵が失脚して「THAADミサイルシステムの導入」が白紙化すれば一番喜ぶのはどこの国でしょうか?  一度締結した国際条約はその国の国家元首が変わっても決して反故に出来るものではありませんが韓国という国家は日本に対して何度も条約を反故にしてきた実績がありこの国が「国際条約を破る常習国家である」事は間違いがありません。現実に有力な次の大統領候補は2015年に結ばれた日本との条約を反故にする発言を繰り返していて「THAADミサイルシステムの導入」に反対だと述べている候補者も実在します。これが実行されればアメリカが怒り、韓国は国際社会から孤立して衰退していくでしょう。しかし中国にとってはこれほど好都合な出来事は無く中国にとって韓国の将来などどうでも良い事です。中国は韓国の「THAADミサイルシステムの導入」を阻止できればそれでいい訳で自国の国民の言論や生命に対してもなんの保証も考えない中華人民共和国が他国の事を考える意思など全く無い事は確実だと思います。朴槿恵が退陣して一番得をするのは中国です。

北朝鮮の場合

北朝鮮が核開発を目指していて日本海に弾道ミサイルを何度も撃ち上げている事実を在特会の皆様は「いつか皆様の頭の上に落ちてくる」とおっしゃっていて、彼らの暴走を止める為にはこうした運動も必要だとは思いますが、私は技術的に完全にミサイルを北朝鮮が掌握しても日本領土にミサイルを落下させる事は絶対に無いと考えています。

もし一発でもそういう事をやって日本国内に被害が出た場合に確実に北朝鮮という国家は終わってしまいます。彼らがやりたいのは「核ミサイル技術を手に入れてアメリカにそれを認めさせて二国間交渉に持ち込む」事であり「日本を攻撃する」事では決してありません。一度は認めた拉致被害者を日本に決して返さないのも核開発を決して止めないのもすべては彼らにとって重要な外交のカードです。

では「何故彼らが日本海にミサイルを撃つのか」は単純な答えであり決して日本が反撃しない事を知っているからです。現在の日本国憲法には軍隊も交戦権も認めておらずそれが解っているから彼らは日本人を拉致し日本海に弾道ミサイルを撃っているだけです。この資金も一部確実に中国やロシアから得ていると私は思います。中国にとって表面上は民主主義国家でありアメリカとも軍事同盟を結んでいる韓国と中国の国土の間に「北朝鮮」という緩衝地帯を持つ事は極めて重要な国家戦略であり北朝鮮が無くなれば国境を挟んで在韓米軍と対峙する事態になる訳です。現在表面上はあまり仲の良くない二国に見えますが中国にとって「北朝鮮」の存在は絶対に必要です。それを充分承知した上で中国は北朝鮮との対話に臨んでいます。「北朝鮮」もそれが解っているからこそ中国に無理を言える訳です。この両者の関係はその意味で「運命共同体」として成り立っています。

中華人民共和国という国家

良く災害がある度に「日本人は礼儀正しい」とか「日本人は節度を守る」と言って外国に称賛されていますが、そういう海外の反応を聞いて一番喜んでいるのは日本人では無く中国共産党だと私は思っています。彼らにとってこの海外の反応以上に日本での工作活動がやりやすく思う事は無いと思います。日本人にとって「隣国だからよく似た人たちだ」と思い込ませるほど彼らに都合の良い事はありません。確かに日本と中国は隣国ですがその思考や価値観は日本人と中国人では全く違います。

中国が海外に出すものとして一番粗悪なものは間違いなく「彼らが発表する数字」だと私は思っています。数字が嘘だから「Made inChina」の商品はすべてが嘘になってしまう訳です。共産党発表の中国GDPの値も嘘、その中の軍事費も嘘、何から何まですべて嘘です。信用できるものなど何もありません。

数年前まで中国はGDPと一緒にその期の電力使用量も発表していました。ところが海外の経済学者から「GDPが上がっているのに電力使用量が下がっているのはおかしい、中国はどんな省電気システムを発明したのか?」と皮肉られると突然電力使用量の発表を止めました。その次は鉄道貨物輸送量とGDPの矛盾点を指摘されるとこれも発表しなくなっています。こういう人種が日本の近くにいる事を日本人は考えて行動しなければ彼らの思うツボになってしまいます。

こうした中国の外交姿勢に惑わされているのは日本だけでは無く「韓国と北朝鮮」が最もひどい扱いを受けています。中国が国際的に非常識な事をした時に日本は少なくとも外交上で彼らを非難しますが韓国と北朝鮮にはそれが出来ません。もし仮に中国を韓国や北朝鮮が外交上非難するような事を試みたら中国は力で抑えにかかります。アメリカと軍事同盟を結んでいる韓国でさえ経済という国家の急所を中国に完全に抑えられた状態であり中国はこの二国に対しては容赦なく報復してきます。中国にとって日本はライバルであっても韓国と北朝鮮は植民地と同じ考え方です。内政干渉であろうが外交であろうが中国の思う通りに動かします。

中国とは秦の始皇帝のいた時代から現在まで一歩も文明の進歩をしていない恐ろしい国家です。日本人の持つ「情」や「忠節心」など全く無い嘘で塗り固められた国家であり決して信用できる国柄ではありません。すべての中国が出す数字は嘘であり彼らはそうした嘘に対して何の良心の呵責も感じません。この事を徹底的に頭に入れて付き合わないとひどい目に合い最悪命を落とす事にもなりかねません。お気を付けください。

あとがき

日本にとっての「厄介な隣人」は間違いなく中国であり北朝鮮でも韓国でも無いと私は思っています。共産主義国家の特徴は「正論は暴力で封じても良い」と考えているところでありこの特徴は日本の左派にも強く持っています。

金正男の死因がマレーシアで検死しても解らないという報道や遺体を北朝鮮に送るという事実はこれも裏に中国共産党の工作活動があると考えるのがまともだと私は思います。金正男をかくまったのも中国であり必要が無いと思ったら彼らはゴミの様に捨てるだけです。中国の軍事パレードに参加した韓国の朴槿恵でさえ自分たちに敵対する存在になると感じたら韓国の内側から世論という誘導方法で容赦なく潰しにかかります。

我々日本のマスコミは殆どこういう中国共産党の影響下にあり、「内側から敵を崩す」のは孫子の兵法の常套手段です。報道に気を付けてください。自分の頭でニュースを考える事を大切にしてください。そうして考えて皆様が思いついた事こそが真理であり現在の日本のマスコミの報道にはそういう真理を巧妙に隠したニュースが横行しています。

お互いに情報を交流してそうした真理を深めていきましょう。明るい未来はその先にあると私は信じています。

 

予言者を斬る

バレンタインとノストラダムス

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前書き

本日はめでたいバレンタインデーであり日本中あるいは世界中で歓喜と落胆の思いが入り乱れる人が続出するかもしれません。

さてここで私が取り上げたいのはバレンタインとノストラダムスは同じであるという事実です。別にこれはノストラダムスに限りません。マヤの終末予言であろうがピラミッドの人類予言であろうがまた多くのその宗教の真理を知らない人にとってもこれらはすべてバレンタインデーと何も変わりません。これはどういう意味であるかというと真理を知らずに深く思い込むのは危険だという事です。

バレンタインデーがどういう日であるのかは私が申し上げるまでも無く皆様がご存知だと思います。では聖バレンタインって誰の事で何故この名前が付いた日が愛の告白をする日になっているのかご存知の人はどれくらいいらっしゃるでしょうか?    勿論こんな事は知る必要もありません。自分の感情に素直に慣習に従ってこの日を過ごせば全く問題が無い訳ですが、こういう風に「真理を知らずに宗教や予言者の言葉に乗せられると危険ですよ」と私は言いたいだけです。

聖バレンタイン

聖バレンタインとは紀元3世紀のローマ皇帝グラディウス2世の時代にインテラムナの司教であったバレンタインの事です。この時代にローマ皇帝グラディウス2世は「兵士は結婚すると士気が落ちる」という理由で兵士に「結婚禁止令」を出していました。しかしインテラムナの司教バレンタインはその無茶な布告に対して若い恋人たちにこっそりと結婚式を挙げてあげていました。その事が発覚してバレンタインは皇帝の前に引きずり出されてローマの神々への改宗を強要された訳です。しかし彼はあくまでも改宗を拒否し紀元270年2月14日に棍棒と石で打たれ首を切られました。

この頃のローマでは毎年2月15日にルベルクスという祭典があってその日には「恋人選びのくじ引き」が行われていました。恋人が欲しい10代の娘たちが自分の名前を書いた紙を箱の中に入れてそれを男性が引く訳です。こうして多くのカップルが毎年生まれていたのですがバレンタインの死後から約2世紀後の紀元496年に法王ゲラシウスは異教の祭典であるこのルベルクスを禁止して代わりにその前日の2月14日を恋人たちの守護聖人バレンタインの日に決めた訳です。この法王の処置に若者たちは大きく不満を持ってくじを引く代わりにその前日の2月14日に自分の好きな相手にカードを贈る事を決め、やがてその習慣は西欧世界全体に広がり「2月14日は想いを寄せる人にカードを贈る日」として定着していった訳でこれが「バレンタインデー」です。

チョコレートの話など全く出てきません。それは日本のチョコレート業界が売り上げを伸ばす為に考えた戦略です。私はそれで良いと思います。「日本のバレンタインデー」としてオリジナルなものになり今後世界に向けて発信する事も出来ます。

ところがこの手法が予言の解明という自分の本の売り上げの為や自分の宗教の宣伝に使われている事でこれは私は大問題だと思っています。今回のブログはそうした本を書いた予言者に絞ってこの事実を検証したいと考えています。宜しくお願い致します。

予言詩の原文をきちんと読めない予言解釈本の著者たち

これはノストラダムスに限りません。世界に残るいわゆる「未来を予言した詩」を正確に読める日本の予言解釈本の著者は殆どいません。

この事がどれだけ奇妙な事か、

「英語が解らないシェイクスピアの専門家」「日本語が解らない紫式部の解説者」

こんな人間があり得ない者である事は誰でも解ると思います。紫式部の「源氏物語」を日本語の苦手な外人が英和辞典片手に英訳したら全く意味不明の訳の解らない文脈になるのは当然です。正直に言えば日本人である私でも「源氏物語」をきちんと読めません。正確に読むのならその当時の言語の読み方を学び、その当時の時代背景や風習などをきちんと学習しなければしっかりした物語が見えてこない事は明白です。

ところが外国の予言の解釈という分野の本の著者においてはこうした類の連中ばかりです。ノストラダムスでさえ400年以上前のフランス人であり彼の当時の時代背景やフランス史への深い理解は絶対に必要であり、それよりもはるか昔の「ピラミッド」や「マヤ遺跡」などに書かれている文章をきちんと理解して日本語の本を出すのはどれほど難しいのか皆様はお解りになると思います。そういう作業を放棄して絶対にまともな予言解釈など出来る筈がありません。

ノストラダムスやマヤ遺跡の予言が当たらないのはノストラダムスやマヤ遺跡に問題があるのでは無く、この予言解釈の著者に大きな問題がある訳です。「バレンタインのチョコレート」は日本の文化として世界に発信できても、こういう予言解釈者の存在は日本の恥にしかなりません。彼らの終末予言の解釈の見出しは自分の本を売る為の確信犯的な詐欺であり、そういう類の本を買う人間を彼らは自分たちより程度の低い人間だと見下しているとしか私は思えません。本質を見ずに真剣にこうした類を考える事はその人の人生を狂わせてしまう大きな危険を伴います。お気を付けください。

予言解釈者の奇妙な原則

こうした予言解釈者には奇妙な共通点がいくつかあります。

1、予言研究者が自己流に予言を解釈してもその予言は決して当たらない。

2、彼らの出す本の解釈はバラバラであり殆ど共通しない。

3、彼らは他の予言解釈者をしばしば非難するが、その批判はその研究者自身にも当てはまる事ばかりである。

4、彼らは自分の予言解釈がはずれても決して反省せず、はずれた予言を信じた人にもなんの責任も取らない。

1~3までは「自分の本を少しでも売りたい」と思う商売の為だと思いますが問題は4です。自分の本を買ってくれて自分の書く事を信じてくれた読者に対しても彼らは全く反省せずなんの責任感も感じません。

これは一見経済評論家の書く本とも似ていますが、全く違うのは経済評論家は最初から「投資は自己責任です」との一文を書いていて自分の書いた通りにはならない場合がある事も初めから認めているのに対して、予言解釈者にとって自分の解釈は絶対であり、はずれた場合の個人の被害については何も考えていない時点で大きく違います。「予言解釈」以外の未来を予測する人のほうが確実に誠実であり自分の書く本の知識についても予言解釈者と比べ物にならないほど良く研究しています。一見同じように見えても現実には彼らの思考や責任感は全く違います。

「経済評論家で金持ちの人はいない」とはかなり的を得た言葉であり、経済評論家の書く未来の経済はあまりあてにはなりませんが少なくとも経済評論家は未来の経済を自分なりに熱心にまじめに研究してその結果を本にして出版しています。彼らが「経済」で収入を得ているのは明白でありはずれた事ばかり言ったり書いたりしていたら自分の生活が成り立ちません。「予言解釈者」などとは全く離れた厳しい世界で彼らは生きています。この違いを明白に皆様にも解って頂いて怪しげな「予言解釈書」や「宗教」には決して惑わされない充実した人生を過ごして頂きたい気持ちです。

あとがき

私が何故こうした予言解釈者たちの事を良く知っているのかと言えば実は私自身がその読者であり多くの本を買って読んだ経験があるからです。終末予言の全盛期には私はまだ学生であり、一生懸命アルバイトで働いて得たお金でこうした予言解釈の本を数十冊も買い求めました。現在でも殆どすべてこれらの本は手元に残っています。

つまり今偉そうにブログで「騙されたら駄目だ」と書いている私自身が見事に騙されていた訳で皆様に偉そうな事を言えるほど私自身が賢くありません。私自身が「この予言は当たる」と思ったからこそお金を出して買った訳でありそのすべては見事にはずれました。

次回こうしたブログの続編を書く時には彼ら「予言解釈者」が何を言っていたのかを実名とその内容について具体的に書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

 

宗教について

宗教を考える

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前書き

ここまで私は「日本の改革者」について思うように書いてきた訳ですが彼らは100年に一度出るか出ないかの存在であり「天才」と呼べなくもない訳ですが「世界」という視点から考えると数百年、あるいは千年に一人出るか出ないかの存在もあります。

彼らの枠は一般的に「天才」と呼べる人間すら飛び越えており「人間」という枠すら確実に抜け出している存在で「聖者」としか呼べない存在です。

日本史に何度か現れる改革者ですらその業績が捻じ曲げられてその存在が歴史教育においてすらきちんと教えられていない訳ですから、そういう「奇跡の存在」の歴史は「宗教」という枠組みに入れられて「疑う事すら許されない存在」になっている訳です。

今回のブログでは思い切ってその「世界史上の奇跡の存在」である「仏陀」と「イエス」について触れてみます。「マホメット」についてあえて触れません。それは「マホメット」がこの二人に決して劣っている訳では無くその理論や教えは非常にこの二人に似ています。違うのは「マホメット」が自分の教えを初めから「宗教」として説いているのに対して「仏陀」と「イエス」は「人間がどう生きていくべきか」という事を説いただけでありそれを宗教にしてしまったのは間違いなく後世の人間です。特に後世の権力者が自分の都合の良い様に何度もその教え自体を捻じ曲げており殆ど原点が見えなくなってしまっています。

したがって私が今回記述したいのはその原点です。今後もその業績がその時代の都合によって捻じ曲げられていくのは確実だと思います。この二人の教えはそれほど崇高であり今後の世界において同じレベルの人間が現れるまでまず理解不能であると私は考えています。今回のブログではその原点を見る為に「聖書」も「仏典」も全く用いるつもりはありません。仏陀が「仏典」を書いた訳でもイエスが「聖書」を書いた訳でも無く、すべてその作業は後世の人間の創作でありそういう書物を参考にすれば確実に原点から外れてしまいます。その教えを「疑っては駄目だ」などと言い出したのは本人ではなく確実に後世の人物であり私が書きたいのは人間としての「仏陀」や「イエス」です。

私はどんな宗教であれまず疑って見ています。「疑うな」という宗教はすべて偽物だとも思っています。かといって現在は特別な宗教に入っていない私ですら宗教は絶対に必要だと思いますし、自分が帰依出来る宗教があれば是非とも入りたいと考えています。それほどにこの二人については誤解が大きい訳です。そういう訳でこのブログに関しての皆様のご理解とご了承をお願い致します。

人間 釈迦

いきなりですが釈迦は悟りの境地になど達してはいません。人間としての生き方に疑問を感じない部分まで到達しただけです。出家した釈迦が「悟り」を求めていた事は確実でしょうが「悟り」を求めなくなって初めて釈迦は「仏陀」になられた訳であり、「仏陀」としての生涯をその後過ごされただけです。これは「イエス」も全く同じです。約2600年ほど前に「人間 釈迦」として生きたのが現実です。

「欲を捨てる」為に修行する自分が「欲を捨てる」という大きな欲望に動かされている事に途中で気付いた釈迦はそれ以降一切厳しい修行をしていませんし、死後の世界を語った事も全くありません。

その事に気付いて以降、釈迦が弟子に説いていった事は

「人間は欲望で動いている動物であり、人間だけが持つ大きな欲望はなるべく捨てて生きるべきだ」

という事だけで「人間の最も大きな欲望」とは「悟りを得たい」とか「死んだ後に極楽に行きたい」とか思う事であり「幸せになりたいと思うほどその人の人生は不幸になってしまう」という真理です。「極楽に行く為に苦難の人生を歩む」事は無駄であり「現生の自分の人生をその役目に従って生きる」事が重要だと説いた訳です。これでは全く宗教にならない為にその業績が恐ろしく捻じ曲げられて「仏教」になっているだけです。釈迦がたどり着いた結論はもっと単純で明快なものであり「正しく生きましょう」という事だけです。迷いが生じた弟子の前で釈迦が手を叩いて「今音がしたのは右の手か左の手か?  あなたはそんな事で悩んでいる」と述べた事は有名な話であり「結論の出ない事で悩むことは無駄だ」という崇高な理論です。これは「宗教」よりも確実に「哲学」でしょう。

人間 イエス

イエスの生き方も全く同じです。私が「イエス キリスト」と書かずに「イエス」と書いているのは「キリスト」とは救世主の事でありイエスはその生涯で自分の事を「救世主」であると名乗った事は一度もありません。確実に後世の人間の創作でありだから私は「聖書」も「仏典」も全く用いない訳です。特に「聖書」はその創作が酷すぎます。

イエスの「誕生秘話」から「復活」まであんなものをまともに信じたら絶対に「人間」としてのイエスから遠く離れてしまいます。

イエスのその業績は他人の為に自分の命まで犠牲にしてつくした「人間愛の生涯」であり、彼が一般庶民にその生涯をかけて解放したかった宗教は「ユダヤ教」であり自分の教えでは決してありません。イエスが自分の事を「神の子」であると言っていたという話も疑わしく、「神はどこにいるのか?」と聞かれたイエスは「神はあなたの心の中にいる」と答えておりイエス自身が自分の事を「特別な存在」だとは考えていたとはとても思えません。。イエスも人間の欲望の否定など全くしていません。クリスチャンが聖杯という形でワインを飲むのがその典型です。

「イエスはお酒が好きだった」  ただそれだけの話に理屈を付けているだけです。

こういう飛び抜けた人物の所業は普通の人間には理解しにくい為にどうしても神話化してしまいます。その最たるものが「聖書」であり「人間が生きていく教訓」としては非常に役に立ちますがイエスを神格化した部分はすべて後世の創作と考えたほうが良いと思います。

仏教キリスト教

こうして原点を見ると良く解るのはイエスと釈迦はそっくりだという事です。「仏教には神がいない」と思うのは早合点であり、釈迦はブラフマン梵天)に導かれて出家してその修行を常にマーラと呼ばれる蛇に変化した悪魔に邪魔されています。その原点ではキリスト教仏教は似ている部分が非常に多いのが特徴であり、全く違うものに変わってしまったのは明らかに後世の人間の創作による意図的な操作としか思えません。この二人がもし同じ時代に生まれていても全く対立する部分は無く、同じ宗教になっていた可能性が高い訳です。歴史やその地方の行政や政治体制が違う為にこの二人の業績に差があるように見えるだけで全く違ったものに変わってしまったのはすべて後世の人間が自分に都合がいい様に創作し続けた結果です。仏教徒でありながらキリスト教に入る事もその逆も、この原点の二人から見れば何も問題はありません。その原点の教えは全く同じです。

宗教に変わった訳

これまで私はこの二人の業績が「捻じ曲げられた後世の人物」のせいであると書いてきましたが、だから「後世の人間が創作したのは間違いだ」とは単純には思いません。

これほどまでに傑出した人間がいきなり現れたら後世にその業績を正しく伝える事は無理であり、どうしても神格化しないと伝えている自分がみじめになるだけであり、ある程度の着色は仕方が無いと思います。

但しこの二人ともそうした着色が「権力を維持する為」や「他民族を滅ぼす為」に使われてきた悲しい歴史があるだけでこの二人にはそうした目的は全く無く何の責任もありません。

人間がいつから宗教というものを始めたのかは、はっきり解りませんが最初は太陽やイナズマなどのその当時の人間には解らなかった人間の存在を超えるものを拝みだしたのが最初であり、この二人の存在は大きく普通の人間を超えるものであった為に宗教化したのは仕方が無いとも思います。

私は最初に述べた様に「疑って疑って」この二つは今後も続いていく宗教だと認めています。ですからこの宗教に入信しているかたに是非ともお願いしたいのは正しい方向に導いてほしいと思うだけです。熱心に信仰している人の数だけでもこの二つとも「億」を超える信者がおり方向を間違えれば戦争になる危機もあります。人間の道徳や倫理観に宗教は不可欠だと私は思いますが権力や戦争の道具に使う事には反対です。

これはこの二人の聖人の意思でもあると私は思っています。原点を大切にしてください。

あとがき

仏陀やイエスの教えを難しく考える必要は全く無く逆に「単純、明快で真理を付いている」事がこの二人の共通点であり、その目的も「死後の世界」にある訳では無く「人間としての生き方」にあり、そういう目的で聖書や仏典を読まれるのであれば大きく人間として進歩するきっかけになるのでは無いでしょうか。

彼らは普通の人間ではありませんが「人間としての完成形」と言っても過言では無いと思います。

イエスは十字架にかけられ釈迦は自分の国家であるカピラバストウを滅ぼされましたが彼らは一切暴力や権力に頼らずにその思想だけで国家を統一し2000年以上たった現在でさえ影響力を与え続けているずば抜けた存在です。悪用すれば国を滅ぼす事も出来る一面を持ちながらきちんと使えば充実した人生が送れるその思想は気高く崇高な人生の哲学です。幸せな人生を送る材料にしたいものです。

 

 

我が国の改革者

織田信長(二)  

鬼と人と

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前書き

完全に豹変した織田信長と対面する事は鬼と対面する事と何も変わりません。日本国内には「鬼伝説」がいくつもあり、その「鬼」と呼ばれた者の正体が何であったのかははっきり解らない事ですが、戦国時代に突然現れた「鬼」はまさしく織田信長です。

日本人の性格はこの当時の世界から見て確実に優しい人間であり戦のやり方からその後の処理までヨーロッパや中国に比べれば信じられないほど甘いものでした。ところがこの「日本人の性格」に織田信長だけは含まれません。彼だけは確実に「別枠」であり他のどんな日本人とも全く違います。戦国時代の日本人でも「戦」とは侍同士の戦いであり侍の究極の目的とは最強の侍になり中央から「天下を治める」事であり現実的には朝廷から征夷大将軍の位を頂き幕府を開く事でした。しかし織田信長だけは全く違います。彼が殺した民衆の数は少なく見ても数十万人はいてその大半は武士以外の一般庶民です。現在までの日本の歴史の中で「一般庶民の大量虐殺を行った人物」は織田信長ただ一人だけであり、その目的は当時の最大の既得権益である仏教勢力を叩き潰す為であり、この仏教勢力のクーデターである「一向一揆」を壊滅させる為に彼は一般庶民を殺す事も仏教の僧侶を殺す事にもなんのためらいも無く実行して見せました。全国を行脚して回る「高野聖」は見つかり次第殺されて、その死者数は3千人を超えています。朝廷の御所の裏鬼門に朝廷守護の為に建てられた比叡山延暦寺を完全に焼き払い、延暦寺にいた人間を女子供まで6000人以上皆殺しにしておいて朝廷を全く無視し、御所の一部を壊して馬の品評会を行い、朝廷から受ける冠位を断り続ける織田信長と対面する事は確実に「鬼との対面」でしかありません。その思想も確実に「鬼」であり世界史を見渡しても生きている間に自分の事を「神」として扱い「神として敬われる事」を求めた人物など私は織田信長以外には一人も知りません。

しかしどんな既得権益の持ち主でも織田信長の家臣であっても信長以外の人間は確実に「人」でありこの時代の日本は「一人の鬼とその他の日本人」で構成されている非常に奇妙な状況でした。信長の暗殺事件である「本能寺の変」は「人」にとってはまさしく「鬼退治」であり今回のブログはそうした側面からこの「鬼と人と」の関係を書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

豹変する前の織田信長の姿勢

やはり今回のブログも豹変する前には織田信長がどういう態度でそれまでの体制に向かい合っていたのかから書かせて頂きます。そして豹変後と比較しないと真実が見えてこないと私は思うからです。

まず、織田信長が都に入った目的は「没落しかけていた室町幕府を立て直し応仁の乱で荒れ果てていた京の治安を回復させる為」であった事は間違いがありません。彼は十四代将軍足利義輝が殺され空白になっていた将軍職に義輝の弟である足利義昭を推挙して十五代の将軍職に付け将軍が安心して暮らせる城として二条城を建てて室町幕府の立て直しにひたすら努めました。荒れ果てていた朝廷の御所を綺麗に整備して京の街並みを整えて乱れていた都の治安を完全に回復させました。その為にかかった膨大な出費をすべて自ら負担しており、確実に織田信長はその時の朝廷や室町幕府にとって待ちわびていた人物であった事は確かだと思います。この時代の織田信長は将軍から与えられる冠位は断りましたが朝廷から頂く冠位はありがたく受けており、それまであった体制に対しての態度は極めて従順であり、石山本願寺を攻撃する為に自分から朝廷に次の征夷大将軍の位を頂く事を願い出た事もあります。この頃織田信長が敵対していたのは、いたるところに関所を持つ仏教勢力だけであり、関所が無くなり一般庶民の往来が増えれば経済が活発化するとの考えの基に東海道を整備し、独占企業の元となっていた「市」や「座」を廃止して民間の企業参加を積極的に応援しました。自分の「本城」である「安土城」の築城ですらほとんど口は出さず、城を造る専門職の職人を選定する基準として「天下一」の称号を与えてその職人の持つオリジナリティを第一に考えていた程です。この頃の織田信長の目指す「理想の国家像」とはそれまでに日本に根付いてた国家体制から出来るだけ既得権益を排除して国益を上げる事であり、その完成形が現在の日本の「民主主義国家」の体制と極めて近いものであったと私は考えています。

豹変後の信長の政策

まず最初に述べておきたいのは信長が豹変するきっかけになった「第一次信長包囲網」を考えたのは十五代室町幕府将軍である足利義昭であるという事実です。

織田信長は朝廷に対しては豹変するまでは従順でしたが将軍に対しては全く別であり、本来は将軍職が行う筈の政治を織田信長の独断で決めており征夷大将軍としての仕事を足利義昭には全く何もさせませんでした。これは「応仁の乱から極めて乱れた世の中になった責任はすべて室町幕府の政治姿勢が原因だ」という織田信長の強い思いがあったからだと私は思います。だからこそ織田信長は将軍職を回復する努力はしましたがその将軍の動きには極めて厳しい規制を入れて将軍が政治を行う事を阻止し続けました。織田信長にとっての「室町将軍」とは都に上り自分が政治を行う為の名目にしか過ぎずそれを利用しただけです。都の奉行所から役人まですべては信長の部下の仕事であり足利義昭とは何の関係もありませんでした。しかし利用できるものは徹底して利用するのが織田信長のやり方であり、彼は全国の大名に新将軍に挨拶する為に都に来る催促をした訳です。この要求を越前の朝倉義景が断った為に織田信長は越前まで攻め込みました。

一方で足利義昭がこの信長の行動を快く思う筈も無く彼は日本各地の有力大名に「織田信長を討て」との指令を出し続け、この将軍の号令によって完成したのが「第一次信長包囲網」です。足利義昭のこの行動は都を追われて将軍職を失った後も全く変わらず後には上杉謙信を中心とする「第二次信長包囲網」を完成させます。

この将軍の動きに完全に囲まれて窮地に至った織田信長が怒ったのは当然でありだからこそ彼は自分の体制を立て直す為の最初の手段として足利義昭を都から追放し、室町幕府を完全に終わらせる事をした訳です。ところが織田信長が独断で朝廷より指名された征夷大将軍を排除し、室町幕府を終焉させる事は朝廷から見れば確実に越権行為であり、朝廷と信長、特に当時の正親町天皇織田信長は激しく対立しました。

賢明な皆様はもうお解りでしょう。信長が御所の一部を壊して馬の品評会を開いたのも、それまでに無かった残忍な方法で大量の人を殺していったのも、自分が安土城の総見寺の「神体」となったのもすべてがこの正親町天皇に対する当てつけであり嫌がらせです。将軍を排除した後に露骨に政治に介入してきたのは正親町天皇であり、今度は織田信長は朝廷を既得権益の一部とみなして戦わざるを得なくなった訳です。

織田信長に冠位を与えて朝廷の意思に従わせようとする正親町天皇に対して信長は天皇の退位と歴の改定を要求し、この両者は正面から対立します。天皇陛下が政治に介入する権力を放棄されたのは平安時代の事ですが、この戦国時代の末期には再び権力を取り戻そうと試みていました。だからこそ新しい権力者である織田信長と激しく対立した訳です。

正親町天皇から織田信長に「征夷大将軍太政大臣か関白になってくれ」との勅命があり、それに対して織田信長が「お答えいたしかねる」と返答したのは「本能寺の変」の直前です。「本能寺の変」の裏側には朝廷という巨大権力が動いていた訳です。決して「本能寺の変」は明智光秀の単独犯行ではありませんが光秀を動かしたのは「武家」では無くて「朝廷」の力です。織田信長という改革者はその巨大な力によってその生涯を絶たれ業績を捻じ曲げられようとしていました。

あとがき

織田信長はそれまで続いた朝廷に代わって自分がその位置に上がろうとしていた」と言う類の話は全て噓であり完全な勘違いです。信長が排除しようとしたのは正親町天皇の政治への介入であり、戦国時代以前の様な状態に朝廷が戻れば確実に朝廷より自分が「征夷大将軍」の位を頂いて「織田幕府」を起こした事でしょう。仏教勢力に対しても信長とは激しく対立しましたが、織田信長がその仏教の宗派の信仰を禁止した事は一度も無く「信仰の自由」の姿勢を貫いています。信長が徹底して排除したのは仏教勢力の政治介入です。すでに信長は正親町天皇が退位された後に自分も権力者の座から降りる準備をしており「本能寺の変」の時には自分の家督をすべて長男である織田信忠に譲っていました。正親町天皇の在位中は自分も身を引けないと考えていただけです。信長が朝廷自体を廃する事など考えていた形跡は全くありません。

そういう意味では最後まで織田信長は「人」であり決して「鬼」ではありませんでした。

しかしこういう私の言葉は現代の歴史から織田信長を見て言える言葉であり、当時の朝廷から見たこの新しい支配者は自分自身を神と名乗り、朝廷からの冠位を拒否し、当時の天皇に退位と歴の改定を要求する「恐ろしい鬼」です。安土の街にはセミナリオと呼ばれるキリスト教の神学校が立ち並び、宣教師たちに対しても信長は「自分が布教を許可すれば朝廷の許可は無用だ」と宣言しており、絶対に朝廷にとっては許す事の出来ない存在でした。

さて、次回からいよいよ「明智光秀」の事も書いていくつもりです。織田信長を討つ人間にどうして「明智光秀」が選ばれたのでしょうか?     明智光秀羽柴秀吉と同じくその素性もはっきりしていない人間であるにも関わらず、信長に仕えてからの出世のスピードは秀吉を確実に上回っていました。細かな点で織田信長明智光秀が叱られた事はあってもそれは光秀に限った事では無く信長の日常で明智光秀自身が織田信長を恨みに思う筈も無く光秀は非常に優秀な信長の部下でした。織田信長が最も明智光秀を頼りにしていた事は明白で、他の織田家の重臣である柴田勝家は北陸に、前田利家は加賀に、羽柴秀吉でさえ長浜に領地を与えられていたのに対して明智光秀の領地は近江の坂本、丹波の亀山とすべて都の周りです。光秀が信長を不満に思う要素など一つもありません。ドラマでは徳川家康の接待役を光秀が命じられたのに途中で解任されたのを不満に思った様なストーリーが良く出てきますが、それこそが作り話でありなんの根拠も証拠もありません。

明智光秀が本能寺で信長を討った経緯は実は全く違う事柄からであり、「本能寺の変」の直前に織田家中で起こった出来事とそれまで光秀がしてきた織田信長に対しての仕事とに深く関係しています。次回のブログではそうした複数の要素を一つ一つ記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

我が国の改革者

織田信長(一)

人から鬼へと変わった男

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前書き

織田信長の改革から「本能寺の変」で信長が最後を迎えるまでを一度のブログにまとめる事は私の能力では不可能です。織田信長の性格やその改革に向かう方向はその生涯を通じて全く変わりませんでしたが、確実に「ある時期」を境にしてその改革姿勢が大きく変わった事は事実です。確実に織田信長はその時期を境にして「人間から鬼」にその生き方を変えました。この信長が「鬼に変わった事」と彼の暗殺事件である「本能寺の変」は深く関係しています。明智光秀が突然謀反を起こし主君である信長を討った背景を考える時に、この織田信長の姿勢の変化やその事件の前後に何があったのかを記述する事は絶対に避けては通れない歴史であるにも関わらず殆どのテレビドラマや映画でもこうした真実には全く触れていません。それまで信長の忠実な部下であり羽柴秀吉以上に信長から信頼され出世してきた明智光秀が何故突然に謀反を起こしてまで織田信長を殺さなければならなかったのかを真剣に考える為には「人間織田信長」と「鬼に変わった織田信長」をまず比較する部分から記述しなければならないと私は考えています。

従って今回のブログではまずは「鬼に変わるまでの織田信長」の姿勢を記述して「鬼に変わった織田信長」と何が違うのかを比較してみたいと思います。宜しくお願い致します。

人間 織田信長の正義

まずは「信長公記」から若い頃の織田信長がどういう態度で治世をしていたのかがうかがわせるエピソードを一つご紹介します。この「信長公記」は当時の言葉で書かれており大変解りにくいので僭越ながら私が現代語に訳して注釈を入れて書かせて頂きます。

尾張の大屋という村に甚兵衛という侍が住んでいましたが、この甚兵衛の留守中に甚兵衛の友人であった佐介が甚兵衛の家に強盗に入りました。この時に甚兵衛の妻が佐介の刀の鞘を奪い取り守護に被害を訴えましたがこの裁判は「火起請」と呼ばれる真っ赤に焼いた鍬を素手で持って特定の場所まで運ぶ事で真偽を決める事になりました。しかし佐介はこれに失敗して鍬を落としてしまって本来なら有罪であるのに無罪にされようとして騒ぎになっていました。そこにたまたま鷹狩りの帰りに織田信長が通りかかりました。この事件の内容を聞いた信長は「すぐにもう一度鍬を真っ赤に焼き直せ」と命じられ「わしがこの鍬を持ってきちんと運んだら佐介を罰する」と言って真っ赤に焼けた鍬を素手で持ち上げて指定の場所まで運びました。周囲には肉の焼ける匂いが立ち煙が上がりましたが信長は決して鍬を離さずきちんと最後まで目的の場所に運んだそうです。その結果、佐介の有罪が確定しました。

どうでしょうか? これが人間 織田信長の正義です。裁判の方法にはきちんと自分も従い自分の身を犠牲にしてまで正面から裁判を受けています。この信長の姿勢には全く残酷な独裁者としての面影はありません。その他にも尾張時代の織田信長は自分を一度は裏切って戦った柴田勝家や弟の織田信行に対しても全く罪を与えずに許しており、自分の義父である斎藤道三を殺した斎藤義龍の息子である斎藤龍興稲葉山城を攻め落とした際に下した判断ですら斎藤龍興の国外追放であり極めて慈悲深く忠節を重んじる侍の鏡とも言える存在でした。ところがそういう姿勢の織田信長にとんでもない災難が待ち受けていました。

第一次信長包囲網

すべての事の発端は朝倉義景領であった越前を織田信長が攻めている時に信長の妹婿である浅井長政の裏切りから始まりました。この為に信長軍は敗走した訳ですが、この信長軍の惨敗をきっかけとして西からは毛利軍が、南から石山本願寺が、北から浅井、朝倉勢が、都では将軍足利義昭が兵を上げて東から武田信玄が攻めてくるという全く逃げ場の無い絶体絶命の状態に一気に織田信長は追い込まれました。この囲まれた状況の中で信長は五年以上殆ど敗戦ばかりの日々を過ごします。比叡山延暦寺を焼いた信長は岐阜城のすぐ近くまで迫っていた武田信玄の急死によってようやくその体制を立て直しにかかります。ここからの織田信長の行為は全くそれまでの温和な政策とは違ったものに変わりました。

鬼に変わった織田信長

まず織田信長は都で挙兵した 十五代将軍足利義昭を京より追放して十五代続いた室町幕府を完全に終焉させると姉川の戦いで浅井、朝倉の連合軍を破りそのまま浅井長政の領土である近江に攻め込みます。ここで初めて信長は「浅井の家につながるものは女子供に至るまで皆殺しにせよ」との命令を出しそれを実行しました。

それが終わるとすぐに毛利勢に味方をして摂津伊丹城で挙兵した荒木村重を攻め、残された村重の婦女子など百二十名余りを尼崎の七本松で磔にして殺し、捕らえた家臣五百名余りを火炙りにして殺し、荒木一族の四十名ほどを京に送って六条河原で車裂きの刑を用いて極めて残酷に殺しています。この同じ時期に同じく毛利勢の味方をしていた三木城を羽柴秀吉が落とす際に二の丸まで攻め込んでおきながら攻めるのを一旦やめて城主である別所長春が腹を切れば城内のすべての人間を助けると約束し実行した事とこの信長のやり方は全く対照的であり完全なサディストとも呼べる仕打ちでした。

そしてその翌年1574年(天正2年)の正月に織田信長に新年の挨拶をする為に安土城に参上した織田家の重臣たちは度肝を抜かれます。織田信長の正面には浅井久政・長政父子と朝倉義景の三つのドクロが金箔を貼られて並べられて置かれており信長はそのドクロを酒の肴として扱い酒を飲んだという話です。

この信長包囲網以降の信長は完全に別人でありまさしく鬼です。自分が安土城を留守にしている間に桑実寺の寺参りに城内の女性が出かけているのを帰城して知ると僧侶もろとも全員を寺に火をかけて殺しており、こんな性格の信長は包囲網以前とは全く違います。安土城には総見寺という寺が作られましたがこの寺の本尊は織田信長自身です。彼は城下の人々に賽銭百文を持ってくるように命じ自分を拝ませて賽銭を直接受け取ると賽銭箱に放り投げていきました。この事は当時日本にキリスト教の宣教師として来ていたルイス・フロイスが本国に「信長は神の様に尊敬されることを願い、安土の寺院には神体は無く、信長はみずからを神体と考え、世界には他の主は無く、地上において崇拝されることを望んでいる」と驚きを持って書き送っています。実際にその通りでありそのころの信長は春日大社の神の使いとされている鹿を弓で射殺し、天皇の宝物蔵である東大寺正倉院蘭奢待と呼ばれている名香を切り取り安土城に持ち帰っており朝廷の権威も神仏の加護も全く信じない鬼としてこの日本に君臨している状態でした。

あとがき

この織田信長の変化を何が変わったのか解らない人は一人もいないと私は思います。それほど強烈に浅井長政の裏切り後の織田信長は激変しました。

しかし同時にこの時期の織田信長の戦略は日本のその後の戦に革命的な変革をもたらした事も事実です。武田信玄の騎馬軍団に苦しめられた信長は信玄の死後甲斐の国主になっていた武田勝頼と闘い、「長篠の戦」で鉄砲を三段構えにして馬防柵の内側から鉄砲を打ち込むという方法で武田の騎馬軍団を壊滅しました。この戦法が鉄砲の発祥地であるヨーロッパで取られたのはナポレオンが最初であり日本のほうが100年以上早かった事が解ります。また船を用いて石山本願寺に兵糧を持ち込む毛利軍に対して、世界で初めて大砲を積んだ鉄製の軍艦を造ってこれを撃退しています。

日本国内の経済に関してもそれまで「ビタ銭」と呼ばれた偽金が横行していた貨幣価値を「永楽通宝」を基軸通貨にして統一し大いに貢献しました。

しかしこうした織田信長のすべての既得権益を敵に回して戦う姿勢が後の「本能寺の変」につながっていく訳です。織田信長という改革者は最初は穏やかに改革をしていた訳ですが、この急変して鬼となった後の政策はなりふり構わず完全に独裁的でありそれまでの既得権益が恐怖した事は確実です。次回のブログはそうした鬼に変わった信長と既得権益との関係、そして出来れば「本能寺の変直前」に何があったのかまで書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

 

我が国の改革者

聖徳太子 

隠された十字架

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「改革者のブログ」についての前書き

日本の歴史上の改革者である「聖徳太子」「織田信長」「坂本龍馬」について個別にブログを書くと最初に私は書いたにも関わらずこれまで全く手を付けていませんでした。

その理由は誰から書こうかと迷っていた事もありますが最大の要因はこの3人ともその生涯や改革そのものが謎だらけであり3人とも「真実はわざと誰かが歴史から消している」としか思えない部分が多々あり「現在と歴史的に近い人間のほうがその生涯が正確に解る」という歴史の常識が全く通用しない特徴を全員が持っています。こんな事は普通はあり得ない話ですが結局は「改革者の歴史はその当時の人間やその後の人間にとって都合のいいように捻じ曲げられて真実を教えない」という感情から来ているとしか思えません。聖徳太子よりも当時の天皇であった推古帝や有力豪族であった蘇我氏物部氏の生涯のほうが確実に解りやすく、織田信長よりも豊臣秀吉徳川家康坂本龍馬よりも西郷隆盛山内容堂のほうが数段良く解るという奇妙な現実に実は私自身も戸惑っています。

そうであるのなら逆に難しい筈である古いほうから書き始めようと思って「聖徳太子」を最初に選んでみました。この三者には不思議な共通点があり、その共通点だけを故意に隠そうとしている部分があります。そのヒントが今回の題名である「隠された十字架」であり私はそういう視点から「日本の改革者の歴史」を記述していきたいと考えています。

正直に言えば私には皆様に解りやすいブログを書ける自信は全くありません。しかし世間一般に広がっているような「当たり前の歴史」を私が書いてもなんの意味も無いと考えています。物事の経過は正面から見るよりも裏側や側面から見たほうが真実が解る部分があり特にそれまでの制度をひっくり返した改革者の「正面の歴史」は故意に着色されゆがめられて後世に伝えられています。私は出来るだけそうした「着色された歴史」から離れて真実を伝えてみたいと考えております。そうした視点からこの「改革者の歴史」をブログにまとめていく気でおりますのでご理解のほど宜しくお願い致します。

法隆寺の救世観音像の謎

奈良県の「法隆寺」には「救世観音像」が納められています。この「救世観音像」は聖徳太子の実物大の像であると言われていますがその事を知っているかたも少ないと思います。というのはこの仏像は長い間誰も見る事の出来ない「秘仏」として扱われており僧侶でさえ「封印を解いて拝めば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊する」との迷信が信じられていて739年(天平11年)にこの銅像が安置されて以降1884年(明治17年)まで1000年以上全く人目に触れる事はありませんでした。この仏像を公開したのは東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサであり、彼は調査の為に無理を言って僧侶からこの仏像を研究する許可を得ました。この仏像はそういう意味で日本の他の仏像とは全く違う存在です。

彼のこの「救世観音像」の研究の結果、驚くべき事がいくつか解ってきました。この仏像の完成度の高さは他の日本の仏像と比較にならないほど高くレオナルドダヴィンチの作品に匹敵するものであるという事が一つです。もう一つはこの仏像はその高い完成度を持っているにも関わらず「後光」が頭の後ろから釘で打ち付けられているという矛盾点です。普通は日本で仏像を作る時には釘など一本も使われません。「仏像の後光」は仏像の後ろに別に造られるのが普通ですがこの仏像だけは後頭部に太い釘で後光が打ち付けられています。人間なら確実に死んでしまう部分に後光を釘で打ち付けた仏像など普通はあり得ないものであり、その意図はどう考えても「呪いを封じる為」としか考えられないという事実です。この「法隆寺」の「救世観音像」の設置されている「夢殿」に行く通路自体がわざと人が近づく事が困難なように邪魔になる部分に柱が設置されていたり、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたという話もあり1000年以上白布で覆われて全く人目に触れなかったこの仏像は謎だらけの状態です。一般的に聖徳太子が人に恨まれるような事を行った事実は何もなく何の「呪いを封じる」のかさえ全く解りません。この現実に対して哲学者・梅原猛氏は1972年(昭和47年)に大胆な仮説を発表しました。この説は同年に新潮社から「隠された十字架」として出版されこの学説が広まり出すと日本政府は1万円札の肖像画を「聖徳太子」から「福沢諭吉」へと代え、突然「聖徳太子は実在しない」という説が登場しました。すべてはこの学説から後の出来事です。これを単なる偶然とみるのは確実に無理があると思います。

私が前書きで「物事を裏側や側面から見る」と書いたのはこの事であり、このブログも梅原猛氏の学説に従って書いていきます。異論のあるかたは大いに歓迎です。この学説以外で「救世観音像」の謎が少しでも解けるのなら是非とも教えてください。私には全く解らない事ですので真摯に耳を傾けます。

聖徳太子キリスト教

この学説によれば聖徳太子のいた飛鳥時代仏教とは別にキリスト教も確実に日本に入ってきていたという事で仏教を日本の宗教に決めた聖徳太子仏教よりもキリスト教を重んじていた節が多分にあるとの事です。「聖徳太子」という名前自体が彼の死後に付けられたものであり彼の生きていた時代には彼は「厩戸(うまやど)」、または「厩戸王」と呼ばれていました。この名前の由来は彼が馬子屋で生まれた事から来ているとの説が有力です。これはイエスキリストの誕生秘話と全く同じです。

次に現在でも日本最大の仏殿である東大寺の年始の行事は「お水取り」と呼ばれる儀式から始まり東大寺には二月堂や三月堂が存在します。仏教にこんな儀式はどこにも無く極めてキリスト教に近い儀式です。さらに聖徳太子の子である山背大兄王蘇我入鹿に殺されましたが入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一旦一族郎党を連れ生駒に逃れましたが「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない」と言って入鹿の軍のところに戻って自害します。こんな発想は仏教には全く無く山背大兄王が自害した場所こそが現在の法隆寺です。この事実をキリスト教を外して考えられる人がおられるのなら是非とも教えてください。

封印されたキリスト教

聖徳太子蘇我氏の血筋であるにも関わらず彼の一族は蘇我入鹿によって滅ぼされ、その蘇我入鹿も西暦646年の大化の改新中大兄皇子中臣鎌足に殺され蘇我氏は滅亡しました。中大兄皇子は後の天智天皇であり中臣鎌足は後の藤原鎌足です。強大な権力によって日本に入ってきていたキリスト教は完全に封印されてその後日本は仏教国としての歴史を歩き始めます。江戸時代の徳川幕府キリスト教禁止令よりもはるかに強い力で日本の権力は飛鳥時代キリスト教を排除したと考えるのは私は妥当だと思います。

しかし一旦国内に入った宗教勢力を完全に排除する事は出来ない為に東大寺の宗教行事にはキリスト教由来のものが根強く残ってしまった訳です。その後桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京に遷都しましたがその理由は天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図であったとの説が一般的です。何故都を変えてまで天智天皇系の都を造る必要があったのでしょうか?  しかも遷都した「長岡京」をたった9年でまた遷都して「平安京」に移っています。この「平安京」は現在の京都でありその後明治維新まで天皇陛下が都を移す事はありませんでした。やはり私は聖徳太子やその子孫の生涯、救世観音像の謎、天智天皇の後の目まぐるしい遷都の理由、その背後には大陸から日本に入ってきたキリスト教の存在があったとしか考えられません。

あとがき

聖徳太子」は後の改革者である「織田信長」や「坂本龍馬」のような悲惨な運命を迎えていないとは決して言えない事が解って頂けたでしょうか?  改革者の歴史は捻じ曲げれられて「聖徳太子飛鳥時代に冠位十二階や憲法十七条を制定し日本を独立国家にした偉い人」などと巷に流れている情報が権力者によってその生涯の良いところだけをつまみ食いしただけのものであり、法隆寺の救世観音像の謎などは全く報道されません。

しかしそれまでにあった既存の社会体制を壊して新しいシステムを作り上げる事は確実に物理的にも「大量の血を流す」作業であり、新しい世の中が出来ると同時にその改革者は闇の中に放り込まれてその実績は新しい権力者に都合のいいように書き直されます。既得権益の持つ力は確実に改革者よりも大きくどんな手を使ってでも改革者の業績を踏み潰します。「現在は民主主義の平和な世の中だから大丈夫だ」と考えるのは妄想であり平和ボケでしかありません。現在の日本に大きな改革が必要である事は確かですが、その大改革で被害を受ける日本人や諸外国が多くある事を絶対に忘れては駄目だと私は思います。それでも我々は無血の大改革に取り組むべきであり、その為にはこうした歴史の真実を知って歴史に学んで前に進むことが大切だと思います。

我々には未来は全く解りませんが過去なら学んで知って行動する事は可能です。ともに頑張りましょう。