我が国の改革者

織田信長(二)  

鬼と人と

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前書き

完全に豹変した織田信長と対面する事は鬼と対面する事と何も変わりません。日本国内には「鬼伝説」がいくつもあり、その「鬼」と呼ばれた者の正体が何であったのかははっきり解らない事ですが、戦国時代に突然現れた「鬼」はまさしく織田信長です。

日本人の性格はこの当時の世界から見て確実に優しい人間であり戦のやり方からその後の処理までヨーロッパや中国に比べれば信じられないほど甘いものでした。ところがこの「日本人の性格」に織田信長だけは含まれません。彼だけは確実に「別枠」であり他のどんな日本人とも全く違います。戦国時代の日本人でも「戦」とは侍同士の戦いであり侍の究極の目的とは最強の侍になり中央から「天下を治める」事であり現実的には朝廷から征夷大将軍の位を頂き幕府を開く事でした。しかし織田信長だけは全く違います。彼が殺した民衆の数は少なく見ても数十万人はいてその大半は武士以外の一般庶民です。現在までの日本の歴史の中で「一般庶民の大量虐殺を行った人物」は織田信長ただ一人だけであり、その目的は当時の最大の既得権益である仏教勢力を叩き潰す為であり、この仏教勢力のクーデターである「一向一揆」を壊滅させる為に彼は一般庶民を殺す事も仏教の僧侶を殺す事にもなんのためらいも無く実行して見せました。全国を行脚して回る「高野聖」は見つかり次第殺されて、その死者数は3千人を超えています。朝廷の御所の裏鬼門に朝廷守護の為に建てられた比叡山延暦寺を完全に焼き払い、延暦寺にいた人間を女子供まで6000人以上皆殺しにしておいて朝廷を全く無視し、御所の一部を壊して馬の品評会を行い、朝廷から受ける冠位を断り続ける織田信長と対面する事は確実に「鬼との対面」でしかありません。その思想も確実に「鬼」であり世界史を見渡しても生きている間に自分の事を「神」として扱い「神として敬われる事」を求めた人物など私は織田信長以外には一人も知りません。

しかしどんな既得権益の持ち主でも織田信長の家臣であっても信長以外の人間は確実に「人」でありこの時代の日本は「一人の鬼とその他の日本人」で構成されている非常に奇妙な状況でした。信長の暗殺事件である「本能寺の変」は「人」にとってはまさしく「鬼退治」であり今回のブログはそうした側面からこの「鬼と人と」の関係を書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

豹変する前の織田信長の姿勢

やはり今回のブログも豹変する前には織田信長がどういう態度でそれまでの体制に向かい合っていたのかから書かせて頂きます。そして豹変後と比較しないと真実が見えてこないと私は思うからです。

まず、織田信長が都に入った目的は「没落しかけていた室町幕府を立て直し応仁の乱で荒れ果てていた京の治安を回復させる為」であった事は間違いがありません。彼は十四代将軍足利義輝が殺され空白になっていた将軍職に義輝の弟である足利義昭を推挙して十五代の将軍職に付け将軍が安心して暮らせる城として二条城を建てて室町幕府の立て直しにひたすら努めました。荒れ果てていた朝廷の御所を綺麗に整備して京の街並みを整えて乱れていた都の治安を完全に回復させました。その為にかかった膨大な出費をすべて自ら負担しており、確実に織田信長はその時の朝廷や室町幕府にとって待ちわびていた人物であった事は確かだと思います。この時代の織田信長は将軍から与えられる冠位は断りましたが朝廷から頂く冠位はありがたく受けており、それまであった体制に対しての態度は極めて従順であり、石山本願寺を攻撃する為に自分から朝廷に次の征夷大将軍の位を頂く事を願い出た事もあります。この頃織田信長が敵対していたのは、いたるところに関所を持つ仏教勢力だけであり、関所が無くなり一般庶民の往来が増えれば経済が活発化するとの考えの基に東海道を整備し、独占企業の元となっていた「市」や「座」を廃止して民間の企業参加を積極的に応援しました。自分の「本城」である「安土城」の築城ですらほとんど口は出さず、城を造る専門職の職人を選定する基準として「天下一」の称号を与えてその職人の持つオリジナリティを第一に考えていた程です。この頃の織田信長の目指す「理想の国家像」とはそれまでに日本に根付いてた国家体制から出来るだけ既得権益を排除して国益を上げる事であり、その完成形が現在の日本の「民主主義国家」の体制と極めて近いものであったと私は考えています。

豹変後の信長の政策

まず最初に述べておきたいのは信長が豹変するきっかけになった「第一次信長包囲網」を考えたのは十五代室町幕府将軍である足利義昭であるという事実です。

織田信長は朝廷に対しては豹変するまでは従順でしたが将軍に対しては全く別であり、本来は将軍職が行う筈の政治を織田信長の独断で決めており征夷大将軍としての仕事を足利義昭には全く何もさせませんでした。これは「応仁の乱から極めて乱れた世の中になった責任はすべて室町幕府の政治姿勢が原因だ」という織田信長の強い思いがあったからだと私は思います。だからこそ織田信長は将軍職を回復する努力はしましたがその将軍の動きには極めて厳しい規制を入れて将軍が政治を行う事を阻止し続けました。織田信長にとっての「室町将軍」とは都に上り自分が政治を行う為の名目にしか過ぎずそれを利用しただけです。都の奉行所から役人まですべては信長の部下の仕事であり足利義昭とは何の関係もありませんでした。しかし利用できるものは徹底して利用するのが織田信長のやり方であり、彼は全国の大名に新将軍に挨拶する為に都に来る催促をした訳です。この要求を越前の朝倉義景が断った為に織田信長は越前まで攻め込みました。

一方で足利義昭がこの信長の行動を快く思う筈も無く彼は日本各地の有力大名に「織田信長を討て」との指令を出し続け、この将軍の号令によって完成したのが「第一次信長包囲網」です。足利義昭のこの行動は都を追われて将軍職を失った後も全く変わらず後には上杉謙信を中心とする「第二次信長包囲網」を完成させます。

この将軍の動きに完全に囲まれて窮地に至った織田信長が怒ったのは当然でありだからこそ彼は自分の体制を立て直す為の最初の手段として足利義昭を都から追放し、室町幕府を完全に終わらせる事をした訳です。ところが織田信長が独断で朝廷より指名された征夷大将軍を排除し、室町幕府を終焉させる事は朝廷から見れば確実に越権行為であり、朝廷と信長、特に当時の正親町天皇織田信長は激しく対立しました。

賢明な皆様はもうお解りでしょう。信長が御所の一部を壊して馬の品評会を開いたのも、それまでに無かった残忍な方法で大量の人を殺していったのも、自分が安土城の総見寺の「神体」となったのもすべてがこの正親町天皇に対する当てつけであり嫌がらせです。将軍を排除した後に露骨に政治に介入してきたのは正親町天皇であり、今度は織田信長は朝廷を既得権益の一部とみなして戦わざるを得なくなった訳です。

織田信長に冠位を与えて朝廷の意思に従わせようとする正親町天皇に対して信長は天皇の退位と歴の改定を要求し、この両者は正面から対立します。天皇陛下が政治に介入する権力を放棄されたのは平安時代の事ですが、この戦国時代の末期には再び権力を取り戻そうと試みていました。だからこそ新しい権力者である織田信長と激しく対立した訳です。

正親町天皇から織田信長に「征夷大将軍太政大臣か関白になってくれ」との勅命があり、それに対して織田信長が「お答えいたしかねる」と返答したのは「本能寺の変」の直前です。「本能寺の変」の裏側には朝廷という巨大権力が動いていた訳です。決して「本能寺の変」は明智光秀の単独犯行ではありませんが光秀を動かしたのは「武家」では無くて「朝廷」の力です。織田信長という改革者はその巨大な力によってその生涯を絶たれ業績を捻じ曲げられようとしていました。

あとがき

織田信長はそれまで続いた朝廷に代わって自分がその位置に上がろうとしていた」と言う類の話は全て噓であり完全な勘違いです。信長が排除しようとしたのは正親町天皇の政治への介入であり、戦国時代以前の様な状態に朝廷が戻れば確実に朝廷より自分が「征夷大将軍」の位を頂いて「織田幕府」を起こした事でしょう。仏教勢力に対しても信長とは激しく対立しましたが、織田信長がその仏教の宗派の信仰を禁止した事は一度も無く「信仰の自由」の姿勢を貫いています。信長が徹底して排除したのは仏教勢力の政治介入です。すでに信長は正親町天皇が退位された後に自分も権力者の座から降りる準備をしており「本能寺の変」の時には自分の家督をすべて長男である織田信忠に譲っていました。正親町天皇の在位中は自分も身を引けないと考えていただけです。信長が朝廷自体を廃する事など考えていた形跡は全くありません。

そういう意味では最後まで織田信長は「人」であり決して「鬼」ではありませんでした。

しかしこういう私の言葉は現代の歴史から織田信長を見て言える言葉であり、当時の朝廷から見たこの新しい支配者は自分自身を神と名乗り、朝廷からの冠位を拒否し、当時の天皇に退位と歴の改定を要求する「恐ろしい鬼」です。安土の街にはセミナリオと呼ばれるキリスト教の神学校が立ち並び、宣教師たちに対しても信長は「自分が布教を許可すれば朝廷の許可は無用だ」と宣言しており、絶対に朝廷にとっては許す事の出来ない存在でした。

さて、次回からいよいよ「明智光秀」の事も書いていくつもりです。織田信長を討つ人間にどうして「明智光秀」が選ばれたのでしょうか?     明智光秀羽柴秀吉と同じくその素性もはっきりしていない人間であるにも関わらず、信長に仕えてからの出世のスピードは秀吉を確実に上回っていました。細かな点で織田信長明智光秀が叱られた事はあってもそれは光秀に限った事では無く信長の日常で明智光秀自身が織田信長を恨みに思う筈も無く光秀は非常に優秀な信長の部下でした。織田信長が最も明智光秀を頼りにしていた事は明白で、他の織田家の重臣である柴田勝家は北陸に、前田利家は加賀に、羽柴秀吉でさえ長浜に領地を与えられていたのに対して明智光秀の領地は近江の坂本、丹波の亀山とすべて都の周りです。光秀が信長を不満に思う要素など一つもありません。ドラマでは徳川家康の接待役を光秀が命じられたのに途中で解任されたのを不満に思った様なストーリーが良く出てきますが、それこそが作り話でありなんの根拠も証拠もありません。

明智光秀が本能寺で信長を討った経緯は実は全く違う事柄からであり、「本能寺の変」の直前に織田家中で起こった出来事とそれまで光秀がしてきた織田信長に対しての仕事とに深く関係しています。次回のブログではそうした複数の要素を一つ一つ記述していきたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

我が国の改革者

織田信長(一)

人から鬼へと変わった男

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前書き

織田信長の改革から「本能寺の変」で信長が最後を迎えるまでを一度のブログにまとめる事は私の能力では不可能です。織田信長の性格やその改革に向かう方向はその生涯を通じて全く変わりませんでしたが、確実に「ある時期」を境にしてその改革姿勢が大きく変わった事は事実です。確実に織田信長はその時期を境にして「人間から鬼」にその生き方を変えました。この信長が「鬼に変わった事」と彼の暗殺事件である「本能寺の変」は深く関係しています。明智光秀が突然謀反を起こし主君である信長を討った背景を考える時に、この織田信長の姿勢の変化やその事件の前後に何があったのかを記述する事は絶対に避けては通れない歴史であるにも関わらず殆どのテレビドラマや映画でもこうした真実には全く触れていません。それまで信長の忠実な部下であり羽柴秀吉以上に信長から信頼され出世してきた明智光秀が何故突然に謀反を起こしてまで織田信長を殺さなければならなかったのかを真剣に考える為には「人間織田信長」と「鬼に変わった織田信長」をまず比較する部分から記述しなければならないと私は考えています。

従って今回のブログではまずは「鬼に変わるまでの織田信長」の姿勢を記述して「鬼に変わった織田信長」と何が違うのかを比較してみたいと思います。宜しくお願い致します。

人間 織田信長の正義

まずは「信長公記」から若い頃の織田信長がどういう態度で治世をしていたのかがうかがわせるエピソードを一つご紹介します。この「信長公記」は当時の言葉で書かれており大変解りにくいので僭越ながら私が現代語に訳して注釈を入れて書かせて頂きます。

尾張の大屋という村に甚兵衛という侍が住んでいましたが、この甚兵衛の留守中に甚兵衛の友人であった佐介が甚兵衛の家に強盗に入りました。この時に甚兵衛の妻が佐介の刀の鞘を奪い取り守護に被害を訴えましたがこの裁判は「火起請」と呼ばれる真っ赤に焼いた鍬を素手で持って特定の場所まで運ぶ事で真偽を決める事になりました。しかし佐介はこれに失敗して鍬を落としてしまって本来なら有罪であるのに無罪にされようとして騒ぎになっていました。そこにたまたま鷹狩りの帰りに織田信長が通りかかりました。この事件の内容を聞いた信長は「すぐにもう一度鍬を真っ赤に焼き直せ」と命じられ「わしがこの鍬を持ってきちんと運んだら佐介を罰する」と言って真っ赤に焼けた鍬を素手で持ち上げて指定の場所まで運びました。周囲には肉の焼ける匂いが立ち煙が上がりましたが信長は決して鍬を離さずきちんと最後まで目的の場所に運んだそうです。その結果、佐介の有罪が確定しました。

どうでしょうか? これが人間 織田信長の正義です。裁判の方法にはきちんと自分も従い自分の身を犠牲にしてまで正面から裁判を受けています。この信長の姿勢には全く残酷な独裁者としての面影はありません。その他にも尾張時代の織田信長は自分を一度は裏切って戦った柴田勝家や弟の織田信行に対しても全く罪を与えずに許しており、自分の義父である斎藤道三を殺した斎藤義龍の息子である斎藤龍興稲葉山城を攻め落とした際に下した判断ですら斎藤龍興の国外追放であり極めて慈悲深く忠節を重んじる侍の鏡とも言える存在でした。ところがそういう姿勢の織田信長にとんでもない災難が待ち受けていました。

第一次信長包囲網

すべての事の発端は朝倉義景領であった越前を織田信長が攻めている時に信長の妹婿である浅井長政の裏切りから始まりました。この為に信長軍は敗走した訳ですが、この信長軍の惨敗をきっかけとして西からは毛利軍が、南から石山本願寺が、北から浅井、朝倉勢が、都では将軍足利義昭が兵を上げて東から武田信玄が攻めてくるという全く逃げ場の無い絶体絶命の状態に一気に織田信長は追い込まれました。この囲まれた状況の中で信長は五年以上殆ど敗戦ばかりの日々を過ごします。比叡山延暦寺を焼いた信長は岐阜城のすぐ近くまで迫っていた武田信玄の急死によってようやくその体制を立て直しにかかります。ここからの織田信長の行為は全くそれまでの温和な政策とは違ったものに変わりました。

鬼に変わった織田信長

まず織田信長は都で挙兵した 十五代将軍足利義昭を京より追放して十五代続いた室町幕府を完全に終焉させると姉川の戦いで浅井、朝倉の連合軍を破りそのまま浅井長政の領土である近江に攻め込みます。ここで初めて信長は「浅井の家につながるものは女子供に至るまで皆殺しにせよ」との命令を出しそれを実行しました。

それが終わるとすぐに毛利勢に味方をして摂津伊丹城で挙兵した荒木村重を攻め、残された村重の婦女子など百二十名余りを尼崎の七本松で磔にして殺し、捕らえた家臣五百名余りを火炙りにして殺し、荒木一族の四十名ほどを京に送って六条河原で車裂きの刑を用いて極めて残酷に殺しています。この同じ時期に同じく毛利勢の味方をしていた三木城を羽柴秀吉が落とす際に二の丸まで攻め込んでおきながら攻めるのを一旦やめて城主である別所長春が腹を切れば城内のすべての人間を助けると約束し実行した事とこの信長のやり方は全く対照的であり完全なサディストとも呼べる仕打ちでした。

そしてその翌年1574年(天正2年)の正月に織田信長に新年の挨拶をする為に安土城に参上した織田家の重臣たちは度肝を抜かれます。織田信長の正面には浅井久政・長政父子と朝倉義景の三つのドクロが金箔を貼られて並べられて置かれており信長はそのドクロを酒の肴として扱い酒を飲んだという話です。

この信長包囲網以降の信長は完全に別人でありまさしく鬼です。自分が安土城を留守にしている間に桑実寺の寺参りに城内の女性が出かけているのを帰城して知ると僧侶もろとも全員を寺に火をかけて殺しており、こんな性格の信長は包囲網以前とは全く違います。安土城には総見寺という寺が作られましたがこの寺の本尊は織田信長自身です。彼は城下の人々に賽銭百文を持ってくるように命じ自分を拝ませて賽銭を直接受け取ると賽銭箱に放り投げていきました。この事は当時日本にキリスト教の宣教師として来ていたルイス・フロイスが本国に「信長は神の様に尊敬されることを願い、安土の寺院には神体は無く、信長はみずからを神体と考え、世界には他の主は無く、地上において崇拝されることを望んでいる」と驚きを持って書き送っています。実際にその通りでありそのころの信長は春日大社の神の使いとされている鹿を弓で射殺し、天皇の宝物蔵である東大寺正倉院蘭奢待と呼ばれている名香を切り取り安土城に持ち帰っており朝廷の権威も神仏の加護も全く信じない鬼としてこの日本に君臨している状態でした。

あとがき

この織田信長の変化を何が変わったのか解らない人は一人もいないと私は思います。それほど強烈に浅井長政の裏切り後の織田信長は激変しました。

しかし同時にこの時期の織田信長の戦略は日本のその後の戦に革命的な変革をもたらした事も事実です。武田信玄の騎馬軍団に苦しめられた信長は信玄の死後甲斐の国主になっていた武田勝頼と闘い、「長篠の戦」で鉄砲を三段構えにして馬防柵の内側から鉄砲を打ち込むという方法で武田の騎馬軍団を壊滅しました。この戦法が鉄砲の発祥地であるヨーロッパで取られたのはナポレオンが最初であり日本のほうが100年以上早かった事が解ります。また船を用いて石山本願寺に兵糧を持ち込む毛利軍に対して、世界で初めて大砲を積んだ鉄製の軍艦を造ってこれを撃退しています。

日本国内の経済に関してもそれまで「ビタ銭」と呼ばれた偽金が横行していた貨幣価値を「永楽通宝」を基軸通貨にして統一し大いに貢献しました。

しかしこうした織田信長のすべての既得権益を敵に回して戦う姿勢が後の「本能寺の変」につながっていく訳です。織田信長という改革者は最初は穏やかに改革をしていた訳ですが、この急変して鬼となった後の政策はなりふり構わず完全に独裁的でありそれまでの既得権益が恐怖した事は確実です。次回のブログはそうした鬼に変わった信長と既得権益との関係、そして出来れば「本能寺の変直前」に何があったのかまで書いてみたいと思います。宜しくお願い致します。

 

 

 

我が国の改革者

聖徳太子 

隠された十字架

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「改革者のブログ」についての前書き

日本の歴史上の改革者である「聖徳太子」「織田信長」「坂本龍馬」について個別にブログを書くと最初に私は書いたにも関わらずこれまで全く手を付けていませんでした。

その理由は誰から書こうかと迷っていた事もありますが最大の要因はこの3人ともその生涯や改革そのものが謎だらけであり3人とも「真実はわざと誰かが歴史から消している」としか思えない部分が多々あり「現在と歴史的に近い人間のほうがその生涯が正確に解る」という歴史の常識が全く通用しない特徴を全員が持っています。こんな事は普通はあり得ない話ですが結局は「改革者の歴史はその当時の人間やその後の人間にとって都合のいいように捻じ曲げられて真実を教えない」という感情から来ているとしか思えません。聖徳太子よりも当時の天皇であった推古帝や有力豪族であった蘇我氏物部氏の生涯のほうが確実に解りやすく、織田信長よりも豊臣秀吉徳川家康坂本龍馬よりも西郷隆盛山内容堂のほうが数段良く解るという奇妙な現実に実は私自身も戸惑っています。

そうであるのなら逆に難しい筈である古いほうから書き始めようと思って「聖徳太子」を最初に選んでみました。この三者には不思議な共通点があり、その共通点だけを故意に隠そうとしている部分があります。そのヒントが今回の題名である「隠された十字架」であり私はそういう視点から「日本の改革者の歴史」を記述していきたいと考えています。

正直に言えば私には皆様に解りやすいブログを書ける自信は全くありません。しかし世間一般に広がっているような「当たり前の歴史」を私が書いてもなんの意味も無いと考えています。物事の経過は正面から見るよりも裏側や側面から見たほうが真実が解る部分があり特にそれまでの制度をひっくり返した改革者の「正面の歴史」は故意に着色されゆがめられて後世に伝えられています。私は出来るだけそうした「着色された歴史」から離れて真実を伝えてみたいと考えております。そうした視点からこの「改革者の歴史」をブログにまとめていく気でおりますのでご理解のほど宜しくお願い致します。

法隆寺の救世観音像の謎

奈良県の「法隆寺」には「救世観音像」が納められています。この「救世観音像」は聖徳太子の実物大の像であると言われていますがその事を知っているかたも少ないと思います。というのはこの仏像は長い間誰も見る事の出来ない「秘仏」として扱われており僧侶でさえ「封印を解いて拝めば直ちに神罰が下り、地震で全寺が倒壊する」との迷信が信じられていて739年(天平11年)にこの銅像が安置されて以降1884年(明治17年)まで1000年以上全く人目に触れる事はありませんでした。この仏像を公開したのは東洋美術史家のアメリカ人、アーネスト・フェノロサであり、彼は調査の為に無理を言って僧侶からこの仏像を研究する許可を得ました。この仏像はそういう意味で日本の他の仏像とは全く違う存在です。

彼のこの「救世観音像」の研究の結果、驚くべき事がいくつか解ってきました。この仏像の完成度の高さは他の日本の仏像と比較にならないほど高くレオナルドダヴィンチの作品に匹敵するものであるという事が一つです。もう一つはこの仏像はその高い完成度を持っているにも関わらず「後光」が頭の後ろから釘で打ち付けられているという矛盾点です。普通は日本で仏像を作る時には釘など一本も使われません。「仏像の後光」は仏像の後ろに別に造られるのが普通ですがこの仏像だけは後頭部に太い釘で後光が打ち付けられています。人間なら確実に死んでしまう部分に後光を釘で打ち付けた仏像など普通はあり得ないものであり、その意図はどう考えても「呪いを封じる為」としか考えられないという事実です。この「法隆寺」の「救世観音像」の設置されている「夢殿」に行く通路自体がわざと人が近づく事が困難なように邪魔になる部分に柱が設置されていたり、この像を彫った仏師は、仏の完成後まもなく、原因不明の死を遂げたという話もあり1000年以上白布で覆われて全く人目に触れなかったこの仏像は謎だらけの状態です。一般的に聖徳太子が人に恨まれるような事を行った事実は何もなく何の「呪いを封じる」のかさえ全く解りません。この現実に対して哲学者・梅原猛氏は1972年(昭和47年)に大胆な仮説を発表しました。この説は同年に新潮社から「隠された十字架」として出版されこの学説が広まり出すと日本政府は1万円札の肖像画を「聖徳太子」から「福沢諭吉」へと代え、突然「聖徳太子は実在しない」という説が登場しました。すべてはこの学説から後の出来事です。これを単なる偶然とみるのは確実に無理があると思います。

私が前書きで「物事を裏側や側面から見る」と書いたのはこの事であり、このブログも梅原猛氏の学説に従って書いていきます。異論のあるかたは大いに歓迎です。この学説以外で「救世観音像」の謎が少しでも解けるのなら是非とも教えてください。私には全く解らない事ですので真摯に耳を傾けます。

聖徳太子キリスト教

この学説によれば聖徳太子のいた飛鳥時代仏教とは別にキリスト教も確実に日本に入ってきていたという事で仏教を日本の宗教に決めた聖徳太子仏教よりもキリスト教を重んじていた節が多分にあるとの事です。「聖徳太子」という名前自体が彼の死後に付けられたものであり彼の生きていた時代には彼は「厩戸(うまやど)」、または「厩戸王」と呼ばれていました。この名前の由来は彼が馬子屋で生まれた事から来ているとの説が有力です。これはイエスキリストの誕生秘話と全く同じです。

次に現在でも日本最大の仏殿である東大寺の年始の行事は「お水取り」と呼ばれる儀式から始まり東大寺には二月堂や三月堂が存在します。仏教にこんな儀式はどこにも無く極めてキリスト教に近い儀式です。さらに聖徳太子の子である山背大兄王蘇我入鹿に殺されましたが入鹿の軍に襲われた山背大兄王は、一旦一族郎党を連れ生駒に逃れましたが「戦えば勝つのはわかっている。しかし、私は戦いたくない」と言って入鹿の軍のところに戻って自害します。こんな発想は仏教には全く無く山背大兄王が自害した場所こそが現在の法隆寺です。この事実をキリスト教を外して考えられる人がおられるのなら是非とも教えてください。

封印されたキリスト教

聖徳太子蘇我氏の血筋であるにも関わらず彼の一族は蘇我入鹿によって滅ぼされ、その蘇我入鹿も西暦646年の大化の改新中大兄皇子中臣鎌足に殺され蘇我氏は滅亡しました。中大兄皇子は後の天智天皇であり中臣鎌足は後の藤原鎌足です。強大な権力によって日本に入ってきていたキリスト教は完全に封印されてその後日本は仏教国としての歴史を歩き始めます。江戸時代の徳川幕府キリスト教禁止令よりもはるかに強い力で日本の権力は飛鳥時代キリスト教を排除したと考えるのは私は妥当だと思います。

しかし一旦国内に入った宗教勢力を完全に排除する事は出来ない為に東大寺の宗教行事にはキリスト教由来のものが根強く残ってしまった訳です。その後桓武天皇は784年(延暦3年)に平城京から長岡京に遷都しましたがその理由は天武天皇系の政権を支えてきた貴族や寺院の勢力が集まる大和国から脱して、新たな天智天皇系の都を造る意図であったとの説が一般的です。何故都を変えてまで天智天皇系の都を造る必要があったのでしょうか?  しかも遷都した「長岡京」をたった9年でまた遷都して「平安京」に移っています。この「平安京」は現在の京都でありその後明治維新まで天皇陛下が都を移す事はありませんでした。やはり私は聖徳太子やその子孫の生涯、救世観音像の謎、天智天皇の後の目まぐるしい遷都の理由、その背後には大陸から日本に入ってきたキリスト教の存在があったとしか考えられません。

あとがき

聖徳太子」は後の改革者である「織田信長」や「坂本龍馬」のような悲惨な運命を迎えていないとは決して言えない事が解って頂けたでしょうか?  改革者の歴史は捻じ曲げれられて「聖徳太子飛鳥時代に冠位十二階や憲法十七条を制定し日本を独立国家にした偉い人」などと巷に流れている情報が権力者によってその生涯の良いところだけをつまみ食いしただけのものであり、法隆寺の救世観音像の謎などは全く報道されません。

しかしそれまでにあった既存の社会体制を壊して新しいシステムを作り上げる事は確実に物理的にも「大量の血を流す」作業であり、新しい世の中が出来ると同時にその改革者は闇の中に放り込まれてその実績は新しい権力者に都合のいいように書き直されます。既得権益の持つ力は確実に改革者よりも大きくどんな手を使ってでも改革者の業績を踏み潰します。「現在は民主主義の平和な世の中だから大丈夫だ」と考えるのは妄想であり平和ボケでしかありません。現在の日本に大きな改革が必要である事は確かですが、その大改革で被害を受ける日本人や諸外国が多くある事を絶対に忘れては駄目だと私は思います。それでも我々は無血の大改革に取り組むべきであり、その為にはこうした歴史の真実を知って歴史に学んで前に進むことが大切だと思います。

我々には未来は全く解りませんが過去なら学んで知って行動する事は可能です。ともに頑張りましょう。

 

 

 

これからの日本と世界

特亜3ヶ国を考える

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前書き

私は以前に「韓国について関心があまり無い」と書いた事がありますがその理由については特に詳しく書いていません。

そもそも「日本にとっての特亜」とはどんな国家を言うのでしょうか?  一般的には「韓国」「北朝鮮」「中国」を指す言葉であるのは間違いの無い事でしょうが、日本人にとっての反日国家を「特亜」と呼ぶのであれば「カンボジア」や「パキスタン」「ミャンマー」等も決して親日国家などでは無く日本に対してはかなり強い反日感情を持っています。しかし誰もこれらの国家を「特亜」の中に入れる事も無く私自身も決して「特亜」等では無いと思っています。特亜とは決して「反日のアジア国家」を指す言葉では無くある一つの共通点を持った国家だと思います。今回のブログではその共通点を考えて何故韓国についてだけ日本人が特別に関心を寄せる必要が無いのかを記述していきたいと考えています。宜しくお願い致します。

韓国について

まずこの「特亜」と呼ばれる国家の共通の特徴として本当の意味での民主主義国家は一つも無い事です。「韓国は民主主義の国家だ」と思い込むのは大きな誤解です。韓国は表面上民主主義の体制を取っているだけであり本来の民主主義とは大きく離れた国家です。戦前からの民主主義体制を持っている韓国が何故民主主義国家とは呼べないのか?  その点からまず記述していきたいと思います。

まず民主主義の国家の大前提として「その国家の民主主義はその国の国民が戦って勝ち取ったものである」という事が第一です。「国民に選挙権があるのが民主主義国家」などでは無く「国民の選挙権」をその国の国民が選択し、それまでの国家体制と闘い勝利して国家から奪い取ったものでなければ決してその国家は民主主義国家とは呼べない体制になってしまいます。戦前の朝鮮半島における選挙権はその当時統治していた日本が与えたものであり戦後はアメリカから与えられたものです。決して朝鮮半島の国民が血を流して勝ち取ったものではありません。従ってそういう国家の民主主義は法律よりも国民感情が優先します。裁判所の判決も国際法憲法よりも国民感情を優先してしまう訳です。現在の韓国の政治問題をめぐる国内の騒動はその典型例です。あの国は民主主義国家とは程遠い原始的な国家です。

次に現実的に言論の自由はありません。憲法言論の自由が認められていても実際には無いのが特徴です。韓国にも日本に対して好意的な印象を持っている人間は少なからず存在します。しかしそういう人間の言動には厳しい規制が国民の感情でかかります。これまでの社会体制と異なる考えを口にする人間は暴力で封じ込めにかかります。この考えはまさに毛沢東共産主義の思考であり決して民主主義国家の体制では無い訳です。今回の朴槿恵の問題を受けて韓国国内では憲法改正の動きがありますが憲法がどのように改正されても国家としては何も変わりません。国民感情憲法よりも優先されている限り何をどう変えても全くの無駄です。今回の朴槿恵の問題から抜け出しても韓国が真の民主主義国家になる事はあり得ない話です。

最後にこの国家には絶対に政治的には逆らえない「宗主国」が存在し、その国家が「中華人民共和国」という共産主義国家である点です。これは北朝鮮についても全く同じであり現在は表面的には仲が良くない両国ですが決して北朝鮮が中国に向かってミサイルを撃つ実験をしないのは現在でも北朝鮮にとって中国が「宗主国」である証です。韓国も北朝鮮も経済から政治や安全保障についてまで中国に急所を押えられています。したがって韓国の民主主義はその体制的なものだけであり実質的には民主主義とは全く違う国家です。

第二次世界大戦での日本の功績とその後のアジア諸国

では「特亜」以外の東アジア国家を歴史的に見ていきましょう。この「特亜」とそれ以外の国家とでは第二次世界大戦での旧日本軍の活躍に対して決定的な違いがあります。

皆様がご存知のように日本は第二次世界大戦連合国(特にアメリカ)に敗れて敗戦国になりました。しかし日本の東アジアにおける戦闘の実績は素晴らしくその後の東アジア情勢に革命的な変革を与えました。マレー海戦で日本軍はイギリスに勝利し、インドネシアではオランダに勝利しフィリピンではアメリカにも勝っています。

この4年近く続いた日本の第二次世界大戦での各地での戦線で負け越しているのは唯一アメリカだけであり他の連合国国家には圧倒的に勝利しました。こうした旧日本軍の活躍は戦後に見事に開花した訳でアメリカを含む連合国国家はすべて東アジアの植民地から撤退して東アジアに多くの独立国家を生み出す結果になりました。

この多くの独立国家の誕生は旧日本軍とは直接的には何の関係もありません。闘って独立を勝ち取ったのは個々の東アジアの諸国民の力です。彼らは旧日本軍が堂々とそれまで東アジアを植民地にしていた白人国家と闘う姿に感化されて自分たちにも出来る事が解って実行しただけです。だから特亜の3国以外の国家は日本の戦争責任については全く問題にしない訳です。アジアの有色人種が次々とそれまで占領されていた白人国家と闘えたのは間違いなく日本が第二次世界大戦で残した実績からです。

ところが唯一、第二次世界大戦の開始から現在まで全く白人国家と闘わず常に白人国家の味方になり日本と闘った国家があります。当時の中華民国であり現在の中華人民共和国です。彼らには白人国家と闘った経験も無ければ白人国家に逆らった歴史もありません。だからこそ彼らは現在でも第二次世界大戦の敗戦国で唯一の有色人種である日本を非難し続ける訳です。それに倣って中国を「宗主国」と認める他の特亜2国が同じ様に日本を非難しているにすぎません。第二次世界大戦で日本軍の一員として戦った同胞を売国奴扱いにして戦いもしなかった連中が日本を攻撃している訳です。

「特亜」と日本人から呼ばれている反日国家とそれ以外の東アジアの国家では先の大戦から全く違うのはその為です。「事大主義」と呼ばれる強者に従い弱者を叩く発想を持つ国家が白人国家と全く戦っていないという歴史的な背景を持っている事実が現在でも日本を非難する国家体制を作っている事は確実だと私は思います。

これからの特亜を考える

歴史には流れがあると私は考えています。この歴史の流れに逆行する動きを見せる者はどんな強大な権限を持っていようと必ず衰退するとも私は考えています。まさに現在のアメリカのトランプ政権がそれであり、歴史に逆行するものは必ず歴史の報復を受けて衰退していく運命になります。

これはアメリカだけでは無く特亜3国も全く同じです。昔の栄光に縋ろうとして過去にこだわっている国家に明るい未来がある筈もありません。インターネットが発展し真実に限りなく近い情報が伝えられる時代になっても日本人だけが殆ど気付いていない真実があります。その一番大きなものが「韓国」に対する誤解だと私は思っています。現実には世界中の国家の中で韓国を大切にしている国は日本しかありません。中国も含めた日本以外のすべての国家は韓国を利用しているだけです。韓国にとっての友好的な国家など日本以外にはどこにもありません。だから私は韓国の存在は無視するべきだと書いている訳です。日本人が特亜の中で注目すべきなのは確実にその反日の根元である中国だけ見ていれば韓国などはどうでもいい訳です。現在でも中国経済はかなり危ない局面にありますが「宗主国」である中国が滅びて他の2国が残る事などはあり得ない話であり同時かそれよりも前に確実に他の特亜2国は滅んでいく筈です。日本人として中国以外の特亜2国の事を考えるのであればこの2か国が滅びかけた時に大量に出てくるであろうこの2か国の「難民」の日本への移動をどう抑えるのかという事だけでいいと思います。北朝鮮に対しても日本は間違いなく友好国です。北朝鮮籍の人間にまで日本国内で保護をしてまで生活をさせている訳ですから片方でそういう保護をしておきながらもう片方で「拉致被害者を返してくれ」と言ってもなんの効果も無い事は明白でしょう。

私個人的には何をどう考えてもこれらの「特亜」と呼ばれる国家に未来が無い事は確実です。日本は彼らとどうやって縁を切るのかだけを考えるべきだと思います。自立できない国家に変に関心を持つ事は危険であり無駄です。日本の体制としてそういう国家は無視し続ける状態に一刻も早く持っていく事が何よりも大切だと私は思います。

あとがき

「特亜」などに現実に向き合っている時間は現在の日本には無いとも私は思っています。新政権になったアメリカ、北方領土問題のあるロシア、崩壊の方向性に間違いなく向かっているユーロ圏を見て日本は今後の立ち振る舞いを考えるべきでしょう。

日本人は良くも悪くも謙虚な民族であり自分の住んでいる日本という国家を「アジアの東にある小さな島国」であると考えがちですが現実に現在の日本は世界に誇るアジアの超大国であり、いかに中国がその覇権を広げようとも近代でアジアに2つの大国が存在し続けた歴史など全くありません。韓国が真の民主主義国家では無いのと同様に現在の中華人民共和国が無くなってもあの場所に国際的にまともな国家が誕生する可能性はまずあり得ないと思います。

世界の先進国家はすべて腹黒く大国は小国を使って日本という国家にゆさぶりをかけているだけであり、そんな情報に乗せられて小国を相手に本気で怒る事は危険です。現実に朝鮮半島の国民と日本とは多くの問題があり解決していかなければならない問題は山積していますが、前回のブログでも書いたようにこれは確実に日本の国内問題であり国内の掃除が進めばすべて解決していくと私は思っています。そういう方向で運動しているかたには是非とも頑張ってもらいたい気持ちです。「一心独立して一国独立する」という言葉は福沢諭吉の名言であり、我々は戦後レジームから完全に脱却してもっと日本という国家に誇りを持ちましょう。明るい日本の未来はその先にあると私は信じています。宜しくお願い致します。

 

 

動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(8)

日本の猫

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前書き

前回まで3回にわたって「日本の犬」を取り上げましたが、今回は同じような視点で「日本の猫」に対する歴史的な背景とその存在意義について考えて記述してみたいと思います。

日本人にとっての動物に対する観念は「犬」「猫」に限らずどんな動物に対しても独特です。

「蚤虱馬の尿する枕もと 」

という有名な俳句は江戸時代の俳人松尾芭蕉が「奥の細道」で書いたものです。物凄く不潔な環境であった事が解る一文です。しかし当時から日本人は極めて清潔な民族であった事も間違いの無い事実です。ヨーロッパにチフスやペストやコレラといった恐ろしい伝染病が蔓延し国民の数分の1がその犠牲になった歴史があるのに対して、かなり古い時代から日本にはそんな歴史はありません。伝染病を媒介するネズミなどは日本が海外と交易を始めた頃から船を通じて何度も日本に入ってきていました。渡り鳥や一部の昆虫も毎年ヨーロッパと日本との間を往復していました。日本国内にこれらの伝染病のウイルスが入ってきていたのは確実でしょう。しかし日本国内では大規模に流行する事は絶対にありませんでした。日本人が昔から非常に清潔な民族である証拠です。

現代でいう「トイレ」は昔は「厠」と呼びました。「厠」の語源は「川屋」であり天然の水洗トイレです。それが室町末期に農作物の肥料になる事が解った為に日本人は自分の家の中にトイレを作り始めました。その肥料は冬季に百姓がいくらかの農作物で買い取る事が通例でした。日本のトイレが屋内に出来た背景にはそういう歴史があります。

これに対してヨーロッパで言えば例えばフランスのベルサイユ宮殿にはトイレが一つもありません。映画の中では優雅な貴族の舞台ですが実際には貴族はすべて「オマル」を使用していました。極めて不潔な環境で物凄く臭かった事は確かです。フランス製の香水が有名なのはこの臭さを紛らわす為に発達した事によるものです。意外な事ですが香水の有名な国とは「国内が不潔である為に香水の技術が発達した」という歴史を持っています。国内が清潔な国では香水などは必要では無く香水が重んじられない訳です。

ところが先ほどの芭蕉の俳句「蚤虱馬の尿する枕もと 」があります。これは「不潔な環境でも一緒に生活する動物に人間が合わせて一緒に住む」という日本人独特の動物に対する愛情の表われです。「日本の猫」もこうした環境の中で人間と一緒に生活してきました。

日本人と日本の猫との歴史

犬ほどではありませんが日本に猫が定着した歴史も実はかなり古いものです。長崎県壱岐市勝本町弥生時代のカラカミ遺跡より「飼い猫」の遺骨が出土されています。弥生時代から飼い猫はいた訳でその存在が大きくクローズアップされるのは奈良時代からです。日本における飼い猫の存在は穀物蔵に害獣として存在するネズミを退治してくれる動物として大変貴重なものになり大きく国内に広がりました。しかしこうした「日本猫の家畜としての性能」は鎌倉時代に入るとかなり事情が変わってきます。鎌倉時代には「南宋」(中国)から極めて高い値段で何度も猫が輸入された記録が残っています。日本国内にすでに猫がいるのに彼らは何の為に「高価な海外の猫」を買い求めたのでしょうか。理由は一つであり「ネズミを良く獲ってくれる」からです。つまり「日本古来の猫」は鎌倉時代からあまりネズミを捕っていない訳であり、それでもこうした日本の猫は庶民に愛され続けてきました。驚く事にこうした「猫の輸入の歴史」は明治維新まで絶える事無く続いていきます。「西洋の犬」が日本国内で勝手に繁殖していったのに対して「西洋の猫」は鎖国状態であった江戸時代ですらオランダから長崎を通じて盛んに輸入されています。日本人が「日本の犬」と「西洋の犬」との区別を始めた時代よりはるかに前に「日本の猫」と「西洋の猫」はきちんと区別されていました。「ネズミを積極的に獲るか撮らないか」という極めて明確な違いからです。私が前回のブログの最後に「日本の猫は1000年前からネズミを殆ど獲っていない」と書いたのはこの為です。「日本人にとっての猫の存在」は「中国やヨーロッパにおける猫の存在」とは全く違います。

「海外の猫」と「日本の猫」の違い

猫が人間に飼われだした原因はヨーロッパでも中国でも日本でも世界中で全く変わりません。人間にとっての害獣である小動物を退治してくれる存在として非常に貴重な動物でした。「ネコ」という名前の由来が「ネズミを捕る子」であるという説に全く異存はありません。

ところが海外と日本国内とで全く違うのが「ネコ」という存在の役割の違いです。日本を除くすべての先進国が現在でも「猫の野生動物としての感覚の鋭さ」を昔から変わらず大切にしているのに対して日本人が「ネコ」に求めるのは「従順さ」や「人間との共生のしやすさ」であり日本人だけが「野生動物としての猫の感覚」をむしろ邪魔なものと考えて取り除いてきています。「猫の手も借りたい」とか「猫の役にも立たない」などの表現は殆ど日本人だけのものであり西洋ではそうした猫は何の役にも立たないために排除されてきました。アメリカンショートヘアーやアビシニアンといった歴史的にはごく最近に作られた猫の品種ですらその目的は「野性味が強くネズミを良く獲る猫を作る」という日本人からすれば極めて原始的な発想です。日本人はずいぶん昔からそんな発想は捨てて猫を可愛がっており「気性が荒く飼いにくい猫」は遠ざけてきました。この日本人の発想が「国内でネズミを捕る猫を作る」という方向に全く向かわずに「ネズミを捕る猫は海外から買えばいい」という歴史を1000年近く作ってきた訳です。海外の猫が殆ど日本国内の猫よりも確実に気性が激しいのはこうした理由からです。「猫を飼う」「新しい猫の品種を作る」という目的自体が日本人だけが特殊であり他のどの国家とも全く違う訳です。

日本の猫の種類

現在の日本猫で海外で純血が認められている品種は一つもありません。それは確かにその通りであり鎌倉時代から混血を繰り返してきた日本猫の固定種などはなかなか認められる事は少ないと思います。しかし時代は確実に進化しており日本犬同様に日本猫の価値が認められる日は来ると私は考えています。日本猫の愛好家の皆様には日本の文化を海外に発信する為にも「純血の日本猫」の作成に取り組んで頂きたいものです。

現実に現代の日本猫でも関東と関西では違っています。少なくとも2種類は作れる可能性がある訳です。かなりおおざっぱな分け方ですが関東の猫は尻尾の曲がった猫が多いのに対して関西の猫は尻尾がまっすぐな個体が殆どです。皆様の周りにいる猫を良く確認していただければ解ると思います。この原因は江戸時代の関東で「尻尾のまっすぐな猫は化け猫になる」との伝説があり当時の猫の輸出国であったオランダから日本に入ってくる猫で「尻尾が曲がった猫」しか関東では売れなかったという歴史に基づいていると言われています。江戸時代の限定貿易しかしていない日本ではオランダにとって猫は貴重な輸出商品でした。江戸時代から西洋の船が航海に出る時にはまず必ず保険に入っています。その時の保険会社の条件の中に「ネコを必ず船に乗せる事」という一文があり猫を乗せていない船は沈没しても保険がおりない訳です。その為の猫が日本では高く売れる為にオランダ人は江戸時代から日本に大量の猫を輸出していました。その結果関東と関西では売れる猫も違ってきた訳です。こうした歴史の背景をうまく生かせば日本猫の純血種を一度に複数作る事も可能です。私はこうした日本の文化は大切にするべきだと思いますし猫を可愛がっておられるかたには是非とも頑張って頂きたいものです。

あとがき

今回は思いつくままに「日本の猫」について書きましたが実は私自身は猫に関しては雑種の日本猫しか飼った経験しか無く純粋の西洋猫を飼育した事は一度もありません。

しかし幼い時からお隣の家が無類の猫好きであり私が初めて猫を飼った時にはシャムネコがいて、その後ペルシャ猫、アメリカンショートヘアー、現在はアメリカンカールを飼っていらっしゃいます。もうお亡くなりになりましたがお隣のおじいさんは獣医さんであり、我が家の犬も猫も大変お世話になりました。

ところがお隣がどんな猫を飼われても私の猫はいつもいじめられる訳です。シャムネコなどは外見はおとなしそうに見えますが非常に気性の荒い猫であり我が家の犬とも喧嘩したほどでした。

「何故うちの猫はいつもいじめられるのか?」そう思った事が猫の事を調べようとした動機になりました。犬に関して言えば日本犬は同じ体格の洋犬には決して負けず気性も激しく運動能力も優れているのに日本猫には全く当てはまりません。そういう事を調べだすとやはり日本人の独自性が見えてきて面白いと思いました。

さて次回の動物ブログですがこれまで8回続けてきた「犬、猫」に関するブログは一旦終了してクジラについて書きたいと考えています。日本人はクジラやイルカを獲って食べますがこの事が世界的に見てそんなに残酷な事なのでしょうか?  実は日本人がクジラを獲って食べる事こそ世界の食料需要を満たして世界中の漁業を助ける事にもなっています。現在は極めて厳しい環境にクジラ漁が追い込まれている為に実は重大な環境問題を引き起こしつつあります。そのあたりをデータを見ながらじっくりと記述してみたいと考えています。極端に言えば「クジラ漁は世界を救う存在だ」と私は考えています。宜しくお願い致します。

 

 

 

これからの日本と世界

戦後レジームからの完全脱却

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前書き

誤解される事や非難される事を恐れずに言わせて頂きます。現在の安倍総理の「戦後レジームからの脱却」がすべてうまくいっても、在特会の特定外国人の完全追放が完全に成功したとしても日本が戦後レジームから完全に脱却して戦前の日本人の様になる事は絶対に不可能であり本当に戦後レジームから完全に脱却する為には彼らの方向性は少し違うと私は考えています。

このブログでの私の見解は前回の初回から「本当の事を恐れずに言う」という方向で徹底させていただくつもりですので今回もそうした事だけは曲げずに記述していくつもりです。

とはいえ私個人は安倍内閣を支持していますし、在特会の活動も大いに応援しています。「戦後レジームからの脱却」に安倍内閣在特会が取り組んでいるのは確かな事であり日本を少しでも前に進める為には必要な事であるのは間違いが無くだからこそ応援している訳です。しかし我々一般の国民はもっと事実を知るべきだと思いますし、事実を知って彼らの運動を応援する事こそが本当の「戦後レジームからの完全脱却」につながると私は考えています。今回のブログもそういう趣旨のもとで書かせて頂きますので宜しくお願い致します。

第二次世界大戦での日本の功績

その為にはまずは先の大戦での日本の功績から書かせて頂くのが第一であると私は考えています。「戦後レジーム」の本当の正体を解らずして脱却する事などは絶対に不可能だと思うからです。日本が第二次世界大戦に入り込んでいった経緯については私の以前のアカウントでいくつかブログに取り上げましたし、ここで繰り返すつもりもありません。日本はうまく外国勢力に気付かぬうちに乗せられて最初から勝てる可能性の無い戦争に突入していったのは事実です。しかしそれはごく一部の政治家や軍部の話であり一般大衆の日本人とは殆ど関係がありません。ごく普通の日本人の感覚からすれば先の大戦での日本の戦いは人種差別をする欧米との決死の戦いであり日本は戦争に負けましたが、その日本人の崇高な精神は戦後見事に達成されました。

戦勝国であるフランスが女性の参政権を認めたのは1946年であり日本が戦争に敗れた後です。これに倣ってヨーロッパでも次々と女性の参政権が認められアメリカでは黒人の参政権も認められました。第一次世界大戦の後に日本が「人種差別撤廃条約」を世界で初めて出し、その時に否決されたものが日本が戦争に負けた途端に認められ始めるという異常な状態が当たり前に行われた訳です。この歴史の事実を皆様はどうお考えになられるでしょうか?

似たような名前の改革は世界でそれまでに何度もありました。フランス革命後の「人権宣言」でありアメリカの「奴隷解放宣言」がそうです。しかしこれが名前だけのものであった事は第二次大戦後の世界を見れば明らかです。フランスの「人権宣言」とは正確には「白人男子の人権は認める」というだけのものでありアメリカの「奴隷解放宣言」とは「奴隷」という名前が変わっただけで決して黒人が平等に扱われたものでは無い事は明らかです。これを変えた日本の功績は非常に大きく、極端な事を言えばドイツのメルケル首相も前のアメリカの大統領であるオバマ氏も日本がもし第二次大戦を戦っていなければ登場する可能性すら全く無かった訳です。しかし第二次世界大戦直前のアメリカ大統領フランクリン ルーズベルトは「日本人が我々と同じ人間である証拠はどこにも無い」と堂々と言っておりました。アメリカが日本人を同じ人間だと認めたのは日本が戦争に負けた後であるという奇妙な現実があります。日本国内の「女性運動」をしている皆様はこうした事実をきちんと踏まえて活動していただきたいものです。そうすれば日本の女性にとってもこの国はもっと素晴らしい国家になると思います。戦前の日本国内では欧米のような人種差別も女性蔑視も初めから無く現在毎年発表されている「女性の地位向上ランキング」なるものが白人国家の一方的な偏見に満ちたものである事だけは理解してください。本来であればそうした運動の本部は日本にこそ設置されるべきものであり日本人がランキングをつけてもなんの問題も無い事であるのは明白です。「戦後レジーム」からの脱却はまずはこの戦前の先人たちの考えを取り戻す事から始めるのが第一だと思います。

反日国家の存在

次に「在特会」などの反日民族に対する攻撃についての私の見解を述べたいと思います。

彼らの言っている事、やっている事に対しては何の矛盾もありません。その通りでありもっと大きな運動になれば良いと私も思っています。

しかし彼らの行動で時々忘れているのでは無いかと思うこの運動の根元があります。反日国家や反日民族を生み出した原因はその原点がその反日国家にあるのでは無く確実に日本人側にあるという事実です。従軍慰安婦を認めたのも南京大虐殺を認めたのも確実に最初は「日本人」であり他のどの国でもありません。在日韓国朝鮮人に「在日特権」を認めたのも確実に「日本人」であり彼らは現在その制度の中にいるだけの存在です。在特会が本当に攻撃すべき相手は「在日外国人」では無く日本国内にいる「反日日本人」であり、それを正さない限りこの問題は決して解決しません。村山談話河野談話を完全に国家として否定し日本国内の裁判でこうした売国奴を厳罰に処し国家としての真実を世界に広めない限り決して彼らの運動が達成される訳が無い事は明らかです。運動の正当性は間違いの無いものでも運動の方向性が違います。「反日日本人」が国家の中枢にいる限り決して反日国家も反日民族も無くなりません。根元をそのままにしての運動は逆に国家によって取り締まられる危険性が高い事は充分にご存知の筈です。この事を忘れずに活動して頂きたいものです。

ISについて

現在かつての大日本帝国と同じ運命を歩みつつある民族がいます。IS(イスラム国)がそうだと私は思っています。

「とんでもない、彼らは酷い連中だ」とお考えのかた、巷に流れる情報をうのみにして真実を見失っていませんか?

実際に報道されているISの内容は酷いものです。でもそれは西側の一方的なものである可能性が非常に強く彼らからすれば第二次大戦時の日本と同じように欧米の人種差別から戦っているだけである可能性も高い訳です。もし戦後レジームの無い戦前の日本人であれば彼らと共闘して欧米と闘った可能性も高いと思います。公平なものの見方とはかなり難しいものであり私はなんとも言えませんが、一概に「ISは悪である」との思い込みは日本人としてどうかとも思います。これはアメリカの大統領がトランプに代わってから強く思うようになりました。

ドナルド トランプの政策

やはり私が思っていた以上にトランプ政権は保護主義の姿勢を強く打ち出してきました。アメリカは先祖返りして孤高の道を歩こうとしています。

このタイミングでお隣の韓国では「日韓合意の破棄」の声が強くなってきています。国際条約の破棄は韓国が日本に10億円を返して勝手に破棄できるものでは決してありません。同盟であろうが破棄であろうが国際条約は両国の合意があって初めて成立するものです。

ところがそういう国際的な常識が韓国は解らないのは当然だとしても現在世界一の大国であるアメリカが率先して国際条約を破棄して回っている状況です。トランプ政権なら日本にも「日韓合意の破棄」を求めてくる可能性もある訳です。こういう危険な世界情勢であるからこそ我々日本人も本来の性格を早急に取り戻す必要があると私は思う訳です。

トランプの日本との貿易に対する姿勢は資本主義国の原則を完全に逸脱しています。アメリカの車が日本で売れないのは為替や関税の問題では決して無く日本人に買いたいと思わせる魅力が全く無いからでありアメリカの努力不足でしかありません。TPPの条約破棄はアメリカの工業にとってはプラスになるかもしれませんがアメリカの農産物を海外に売る事に関してはマイナスにしかなりません。その為にアメリカは2国間での貿易協定を進めつつありますがこんな勝手な姿勢には日本は断固として応じるべきでは無いと私は思います。日本がもしアメリカに応じたとしてもトランプのこの姿勢に断固反対する国は必ず出てきます。現実にトヨタはメキシコの工場移転をアメリカに変えましたがドイツはこの要求を完全に蹴りました。トランプの政策は正論なのですがそれは「アメリカ国民にとっての正論」であり他国から見れば常識外れの無茶苦茶でしかありません。結局アメリカは今年や来年をピークにしてどんどんその力を失っていくでしょう。日本はそれを見越した政策が必要です。その政策とは全く難しい事では無く本来の日本人に戻るだけですべてクリア出来る事です。他の先進国は当たり前にそれをやってきます。日本がアメリカに過度に頼る事を止め、ロシアや場合によっては中国とでも手を結ぶ姿勢を見せればすべてが変わります。トランプ政権は日本にとってピンチでは無く絶好のチャンスです。戦後レジームから完全に脱却してこのチャンスをものにしたいものです。

あとがき

戦後レジーム」という妄想は現在の左翼の旗印です。彼らは最初は「日本国内での共産革命」という方向に進んでいましたがソ連の崩壊とともにその夢は消えてしまい、今度は「自虐史観」という方向で反日国家と手を結び日本国民を洗脳し続けてきました。

従軍慰安婦問題」や「南京大虐殺事件」が大きな国際問題になった時期が「ソ連崩壊」の後であるのは偶然などでは決して無く日本の左翼と反日国家とのつながりが「ソ連崩壊」後の左翼の姿勢の変化である事に間違いないと私は思っています。私は自分の政治的な姿勢をアカウントを変えると同時に一旦リセットしましたが日々の情報が入る度に元の保守色に戻しつつあります。しかし左翼を支持するかたを決して遠ざけたりは致しません。個人的でもコミュニティの中でも私が書いている事が間違いであると思われるならどんどんコメントをください。真剣に耳を傾ける気持ちでおります。「戦後レジームからの脱却」が間違いであるとの意見でも大歓迎です。じっくりとお話を伺うつもりでいます。

但し「この日本が大切だ」と思っているかたである事が原則です。「日本が嫌いだ」と思っておられる人の話はして頂いても意味が無いと私は思っています。そういう訳ですのでどうか宜しくお願い致します。

 

動物ブログ

我々の身近な親友、犬、猫について(7)
日本の犬(3)海外で飼われる日本犬

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前書き

前回のブログの最後で今回のブログは「日本の猫」を取り扱う予定である事を記述しましたがどうしてもこの2度のブログでは「日本犬」について不足している部分があり、急遽予定を変更してもう一度「日本犬で海外で飼われる犬」を書かせていただきます。

この「海外で飼われる日本犬」というのは2種類だけです。この二種類以外の日本犬は海外では「純粋犬」としての血統書が発行されておらず世界で「純粋の日本犬」として認められているのは秋田犬と柴犬だけです。今回はその背景やその犬の海外での歴史、何故他の日本犬が認められずこの2種類だけなのかも含めて書いてみたいと考えています。実は日本人にとっても歴史的にもこの2種類は特別な存在である事も含めて記述していく予定です。宜しくお願い致します。

アメリカ アキタの存在 

もし皆様が充分な犬を買う為の資金をお持ちであり優秀な秋田犬が欲しいとお考えになった時にどこに秋田犬の子供を買いに行くのが一番優秀な秋田犬を手に入れられる確率が高いとお考えでしょうか?  意外な事にその場所は秋田犬の原産地である秋田県の大館地方では無くアメリカのビバリーヒルズ周辺になってしまうという現実があります。

アメリカでの秋田犬の飼育の歴史はそんなに古くなく第二次大戦後から本格的に始まりました。日本に駐留した米軍兵士やその関係者がアメリカに持ち帰ったものと考えられます。戦後日本に入った進駐軍はかなり乱暴であり彼らの軍用犬として一緒に日本に入ったジャーマンシェパードと日本の犬を遊びで何度も喧嘩させて楽しみました。ジャーマンシェパードは身体能力の優れた使役犬であり犬としてもかなり大型である為に彼らは喧嘩させる日本の犬も大型のものを選んだ訳です。自然にその相手は秋田犬(とは言っても当時の純粋の秋田犬は極めて貴重で高価であった為多くは秋田犬の雑種)になった訳ですが何度自分の愛犬であるジャーマンシェパードと闘わせても絶対と言っていいほどジャーマンシェパードが勝てず逆に簡単に殺されてしまう事態が頻発しました。ジャーマンシェパードが生粋の使役犬であるのに対して雑種でも秋田犬の血を強く持つ犬は闘犬の血を受け継いでいます。秋田犬は純朴でおとなしい犬ですが本気で喧嘩すると本来の闘犬として扱われてきた本能が表れて恐ろしい強さを見せます。この普段は純朴で物静かでありながら堂々とした佇まいがあり怒ると非常に強い秋田犬にアメリカ人は強烈に興味を引かれました。そして彼らは祖国にこの犬を連れて帰った訳です。祖国であるアメリカでもこの日本犬の凄さはたちまち評判になり、多くのアメリカの金持ちが積極的に日本から優秀な秋田犬を輸入しアメリカで飼育、繁殖をし始めました。日本で純粋の秋田犬を増やしていく以上のスピードでアメリカでの秋田犬の飼育が始まった訳です。この為にアメリカ国内でアメリカアキタケンネルクラブが設立されアメリカ国内で血統書を発行し秋田犬は極めて高価なアメリカの金持ちのシンボル的な存在になりました。世界で「チン」の後に認められた日本原産の純血犬が秋田犬であったのはそういう事情からです。

現実に日本で秋田犬を飼育するのはかなり大変です。日本犬の中では唯一の大型犬であり飼うスペースも毎日の運動もかなりの苦労が要求される品種の犬です。ところが西洋の大型犬が初めから多いアメリカではそれほどの負担にはアメリカ人は感じない現実があります。結果として現在では日本で登録される年間の秋田犬の頭数よりもアメリカで登録される秋田犬の頭数のほうが確実に多く、高級犬として扱われている為にその質も高く日本にいる秋田犬よりもアメリカにいる秋田犬のほうが優れている部分も多くなっているのが現状です。アメリカの高級住宅地には当たり前の様に秋田犬がいます。

特定危険品種の指定

しかし犬に対して最も権威のある血統書発行団体がイギリスのケネルクラブである事には変わりは無くイギリスで秋田犬の純血が認められた時にはその犬の系統についてまたその犬の性格について議論されて人間にとって危険な品種である犬には「特定危険品種の指定」が付くようになりました。20数種類の犬がこの対象になり日本犬の中でこの指定を受けている犬種は秋田犬と紀州犬です。土佐闘犬などはこの規格も飛び越えておりイギリスへの輸入禁止犬種になっています。

自分の国ではブルドックなどの独自の闘犬を作っておきながらずいぶん勝手な理屈ですがこの態度こそが白人であり、イギリス国内で血統書が発行されていない紀州犬にまでこの「特定危険品種」の指定は無茶だと思うのですが、これには紀州犬の血統にその原因があります。紀州犬はイノシシ用の猟犬として極めて優秀ですがその優秀さは外国の猟犬とは全く違った一面を持っています。その歴史は明治時代の一頭の紀州犬から始まりました。

鼻食いロシアの登場

明治末期の日露戦争が終わった頃の日本でそれまでの紀州犬の狩猟の歴史を塗り替える不世出の名犬の登場がありました。この犬の名は「ロシア号」と呼び、現在の紀州犬の血統書にはこの「ロシア号」の血が間違いなく受け継がれています。

「ロシア号」はイノシシ狩りの狩猟の名犬でしたがその戦い方はそれまでのイノシシ猟の猟犬とは全く違うものでした。イノシシに噛みつきながらイノシシの攻撃を避け鉄砲を持った猟師が到着するのを待つのですが猟師が到着して鉄砲を構えるといきなりイノシシの鼻に全体重を乗せて噛みついて猟師が鉄砲を撃つ時にイノシシの動きを完全に止めてしまうという荒業を用いていました。野生動物の動画をご覧になれる時間のあるかたはライオンでもトラでも構いませんから彼らがイノシシを捕獲する時の映像を見る事をお勧めします。決してライオンもトラもイノシシの正面から鼻に噛みつくような事はしていない事がお解り頂けると思います。それほどイノシシの牙は鋭く一発の攻撃でライオンやトラに致命傷を与える事が可能でありそれゆえに彼らがイノシシを獲る時には背後から襲い掛かる訳です。ところがこの「ロシア号」はその正面からイノシシに噛みつき小型のイノシシであれば猟師の到着を待たずそのまま食い殺してしまうという荒業を日常的に使いました。一冬で「ロシア号」は数十匹のイノシシを獲り、獲ったイノシシの鼻がすべて無くなっていた事が記録に残っています。この「ロシア号」のうわさはたちまち広がりしかもこの特性は遺伝する事が解った為に多くの紀州犬と交配させられ「ロシア号」の血統は「鼻食い系」と言われて全国に広がりました。現在の紀州犬の血統も間違いなくその延長線上にある為に紀州犬だけ中型の日本犬の中で特別視されている訳です。闘犬から来た秋田犬と紀州犬はこのイギリスの決めた「特定危険品種」に入っています。

柴犬の流行

こうした荒々しい日本犬の特徴とは別に世界から認められ秋田犬に続いて世界で純血種になったのが柴犬です。柴犬は日本人の中でも「日本犬で最も完成された犬」と言っても良く他の日本犬とは別格的な存在です。他の日本犬が「秋田犬」「北海道犬」「紀州犬」とすべて地方名で呼ぶのに柴犬には地方などありません。太古の頃から日本中で愛され可愛がられてきたこの犬に地方名が付かない訳です。また他の日本犬が白色のものがあるのに対して白い柴犬は殆どおらず黒毛か胡麻毛か赤毛(茶色)で統一されています。しかし柴犬の狩猟性能は素晴らしくウサギやキツネ猟だけでは無くあの小さな体でイノシシからヒグマ猟にまで使える極めて勇敢で敏捷な犬種であり他の日本犬以上の才能を持っていたりします。しかもこの柴犬の最大の特徴は主人に忠実であり非常に明るい性格をしており日本犬の中では飛びぬけて小柄であり誰でもどこでも飼えるという日本人が飼う日本犬としてこれ以上無い素晴らしい犬種です。

この柴犬も最初に海外に渡ったのはアメリカです。最初はその名前は「ミニチュア アキタ」と呼ばれていましたが秋田犬とは何の関係も無い事が解ると正式に「シバ」と改名され世界中に広まり始めました。秋田犬が高級犬であり金持ちのシンボルであるのに対して柴犬は庶民的な犬であり、まずはアメリカで大流行して徐々に世界に広がってきています。殆ど体臭の無い美しい体、小型犬でありながら鋭敏な感覚を持ち無駄吠えをしない性格、明るくて愛くるしい表情はどこの国であっても好かれる特徴であり寒さにも暑さにも強く主人に大変忠実である事も人気に拍車をかけています。

しかし柴犬にも飼育犬としての弱点はあります。この犬は雄、雌二頭で飼うと完全な夫婦の状態になり基本的に他の柴犬とは交配せずに一生を送る事を選びます。つまり繁殖にはあまり向いていない犬であり、犬の原始的な状態が基本的に一夫一婦制であった事を証明している極めて原始的な特徴を持っている犬であるという事です。

日本人はこの柴犬の特徴を美点と捉えてこれまで大切に保存してきました。これから柴犬を飼う事を考えていらっしゃる海外の皆様、この事だけは胸に留めておいてください。柴犬は10キロにも満たない小さな日本の犬ですがその性格や特性はもっと大きな日本犬以上に日本の犬としての特徴を強く持っています。可愛がってやってください。その期待を決して裏切らない素晴らしい犬である事は間違いはありません。

あとがき

「日本の犬」が海外に出ていき喜ばれているのは非常に日本人としても嬉しい事ですがその歴史も性格も特徴も西洋犬と日本犬は全く違います。その事をきちんと理解して飼って頂けるのか考えると不安になる事も多いです。

秋田犬に関してはアメリカ人は解ってくれているであろう事はアメリカアキタの血統書を持つチャンピオン犬が日本人が日本犬の批准から見ても相当高い事で証明されています。日本犬と他の国の犬との一番の違いはその性格であり、他の犬の品評会が犬の形を見るのに対して日本犬の品評会で一番重要視されるのはその性格であり形が完璧でも性格が悪い日本犬に何の値打ちも無く何の賞も取れない事を海外の日本犬愛好者の皆様には解ってほしい事実です。日本犬の歴史を否定し性格を無視するのであれば私は日本人として決してその国民を許しません。そういう人は最初から日本犬以外の犬を飼ってください。日本犬は日本人の魂のこもった大切な犬です。宜しくお願い致します。